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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「海南島的台湾兵」 7

2011年01月25日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「三、海南島佔領與台湾兵」の「(四)戦地生活」の要旨はつぎのとおりである。
                                    佐藤正人

 日本帝国は拡張野心のため相当の人力の代価を支払った。海南島の気候は暑く、水質は悪く、重金属を含んでおり、アメーバー赤痢、デング熱などの伝染病が蔓延していた。産業志願隊員として海南島に行ったことのある尤天和は、海南島の鉄道建設のときに1本の枕木ごとに1人の命が失われたと指摘している。多くの人の死因は伝染病であった。各種の病気のほかに、太平洋戦争戦争末期、日本軍がしだいに敗退していくとき、海南島にいた台湾兵も空襲の危険に遭遇した。
 海南島の日本海軍工員だった林淡國は、“1943年3月3日の三亜大空襲のときの恐怖がいまも残っている。航空隊、飛行場、海軍病院などの三亜の日本軍の軍事施設はみんな大きな損害を受けた。航空隊の火薬庫に爆弾が命中し大爆発した。海軍工員だった台湾人、日本兵、現地の工員などの死者は少なくなかった。遺体を一人ひとり別々に収容できず、海岸に運び、ゴミを焼くようにして焼いた”と話している。
 台湾人巡警は、日本海軍陸戦隊員や通訳として、空襲にあったほかに、仕事のさいに海南島の住民や抗日民兵と接触する機会が多く、危険にさらされた。討伐工作のさいに隠れていた遊撃隊の攻撃を受けて死亡したり、住民と接触しているときに偽装したスパイに殺された台湾人巡警が少なくなかった。日本軍の苛酷な集団的処罰を受け入れないで、日本軍から逃亡して遊撃隊に加入する台湾人巡警もいた。戦争末期(1945年)においては、海南島で兵役年齢に達した台湾青年は、海南島で現地徴兵された。

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