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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

(1)紀州鉱山に強制連行された朝鮮人にかんする資料

2006年03月11日 | 紀州鉱山
1.石原産業紀州鉱山が三重県内務部に、1946年9月に提出した報告書(ここでは「紀州鉱山1946年報告書」とする)。これは、1991年3月に、日本外務省が、韓国政府に渡した第2次名簿にふくまれていたものである。在日本大韓民国民団をつうじて、1993年夏に日本で公開された。
(註) 1990年5月25日。韓国政府が日本政府に強制連行された朝鮮人労働者の調査を要請。
 1990年5月末、日本政府、調査開始。
 1990年5月28日の閣議で内閣官房で調査することに決定→結局、労働省が担当。
 1991年3月、日本外務省が、韓国政府に名簿を渡した(第2次分)。
1992年12月25日、日本外務省が、韓国大使館経由で名簿を韓国政府に渡した(第3次分。約17100人)。
「紀州鉱山1946年報告書」では、1942年から「八・一五」までに紀州鉱山に「徴用・雇傭」された朝鮮人は、のべ875人で、そのうち282人が「逃亡」したとされている。
この報告書には、738人の朝鮮人の名と本籍地や「入所経路」が書かれているが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされている。この「官斡旋」とは、1942年2月の閣議決定後の強制連行のことであり、「徴用」とは、1944年9月からの「国民徴用令」による強制連行のことである(朴慶植「朝鮮人強制連行」、『日本通史』第19巻、岩波書店、1995年、参照)。
(註) 1938年4月 「国民総動員法」公布。
1939年6月 中央協和会設立。
1939年7月 「国民徴用令」(閣議決定)公布。
1939年7月28日 「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」、「朝鮮人労務者募集要綱」(内務・厚生両次官名義の依命通牒)→「募集」方式の朝鮮人強制連行開始。
1942年2月 「朝鮮人労務者活用に関する方策」閣議決定→「官斡旋」開始。
1944年9月 「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」閣議決定→朝鮮人「徴用」開始。

2.1945年4月の三重県知事引継書「国民動員計画による移入朝鮮人労働者」
これは、三重県朝鮮人強制連行真相調査団準備会の要請をうけて、三重県が書庫を
探して発見し、同調査団準備会が、1994年11月はじめに確認したものである。
この文書では、1944年末現在で、三重県内の鉱山や工場(紀州鉱山、東芝三重工場、小野田セメント藤原工場など6か所)に、朝鮮人1767人が強制連行され、そのうち約3分の1の561人が「逃亡」し、「不良送還者」が82人、帰国者が413人で、
「現在員」は711人とされている。

3.中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」(1942年)。

4.日本鉱山協会『半島労務者ニ関スル調査報告』(1945年12月)。

1と2は、「八・一五」のあと50年ちかくたってから、ようやく出されてきたもの
である。

紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の道別人数

咸鏡南道    6人
平安南道    1人
黄 海 道    4人
江 原 道   555人
京 畿 道    97人
忠清北道    6人
忠清南道    3人
慶尚北道    52人
全羅北道    1人
全羅南道    1人
  不明    3人


(2)「紀州鉱山1946年報告書」の検討        

◆文書が一部脱落している。
「紀州鉱山1946年報告書」の内容それ自体の真実性は、うたがわしいものだが、
それだけでなく、日本政府がだしてきたものは、その全文ではない。
「紀州鉱山1946年報告書」の冒頭部は、もともとは一、二、三の3節にわかれ
ているが、日本政府が韓国政府に渡したものには、一と二がぬけている。
◆いいかげんな記述。
「紀州鉱山1946年報告書」冒頭部の本文では、「徴用・雇傭」された朝鮮人は、
のべ875人となっているが、名簿に記載されているのは、738人である(「雇傭」は
9人のみ)。この名簿には、137人の名がない。
また本文では、「死亡者数」は、10人となっているが、名簿に記載されているの
は、5人(「病死」2人、「死亡」3人)である。
 本籍の住所の誤記・誤字がおおい。

紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の郡別人数。()内は逃亡者数。旌善郡から
強制連行された97人の74パーセント(72人)が「逃亡」している。

 全羅南道
潭陽郡 1人( 1人)
 全羅北道
完州郡 1人
 忠清南道
牙山郡 1人( 1人)
洪城郡 1人
燕岐郡 1人
 忠清北道
堤川郡 4人( 1人)
槐山郡 1人( 1人)
清州郡 1人
 慶尚北道 
安東郡 30人(19人)
軍威郡 32人(10人)
慶州郡 1人
 平安南道
平原郡 1人( 1人)
江東郡 1人( 1人)
 江原道
高城郡 1人
伊川郡 64人(18人)
平康郡 1人( 1人)
鉄原郡 77人(39人)
麟蹄郡 96人( 4人)
襄陽郡 2人
江陵郡 5人( 2人)
洪川郡 1人
横城郡 5人( 3人)
旌善郡 97人(73人)
平昌郡160人(59人)
原州郡 25人( 3人)
寧越郡 11人( 4人)
 京畿道
長湍郡 91人(33人)
開豊郡 1人
坡州郡 1人( 1人)

金浦郡 1人( 1人)
ソウル 2人( 1人)
驪州郡 1人
 咸鏡南道
定平郡 2人( 1人)
安辺郡 2人( 2人)
 黄海道
遂安郡 1人
谷山郡 1人
延白郡 1人
金川郡 1人( 1人)
位置不明
 慶尚南道
榮郡? 1人
 京畿道
宇豊郡? 1人( 1人)
蓮州郡? 1人( 1人)

「窓口募集」
慶尚南道 山清郡2人、
 宜寧郡1人
慶尚北道 達城郡1人
忠清北道 永同郡3人
江 原 道 伊川郡1人
全羅北道 金堤郡1人

 実際なにがあったのか。「官斡旋」(496人)、「徴用」(233人)、「窓口」(9人)の実態は? 特別手当、帰国旅費はほんとうに支払われたか。
 「解雇」、「転出」、「応召」、「不明(不詳)」の実際の内容は?
 強制連行した朝鮮人を「解雇」したのは、なぜか?
 物理的拘束、内面の拘束、思想的拘束。

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3.紀州鉱山での朝鮮人死者

2006年03月10日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山で命をおとした朝鮮人労働者にかんしても明らかになっていないことがおおい。石原産業が一九五五年につくった『従業物故者忌辰録』という「会社創業以来の物故者」の名簿がある。
この名簿の「殉職者関係分」の部分に、梁四満氏(一九三八年六月二七日「殉職」)、安謹奉氏(一九四〇年一〇月一七日「殉職」)、崔俊石氏(一九四〇年一二月三一日「殉職」)の名が、「戦歿者関係分」の部分に、趙龍凡氏(一九四二年一一月一六日「戦歿」)、曽春木氏(一九四二年一一月二四日「戦歿」)の名が、「病没関係その他未詳分」の部分に、薜乗金氏(一九三六年五月一五日「病」)、梁煕生氏(一九四〇年六月一日「病没」)、南而福氏(一九四五年五月三日「病没」)の名が記されている。
その他に創氏改名させられていたと思われる「安田徳勲」氏(一九四四年八月六日「殉職」)、「玉川鐘連」氏(一九四二年八月八日「病没」)ら約一〇人の名がある。「紀州鉱山一九四六年報告書」のはじめの部分には、一九四二年以後の紀州鉱山での朝鮮人の「死亡者数」は一〇人と書かれているが、名簿部分に名が記されているのは、「玉川光相」氏(一九四四年三月七日「業務上死亡」)、「海山応龍」氏(一九四五年二月二〇日「病死」)、南而福氏(一九四五年五月三日「病死」)、「金本仁元」氏(一九四五年六月一日「公傷死」)、「金山鍾云」氏(「病死」死亡日記載なし)の五人だけである。このうち、「玉川光相」氏、南而福氏、「金本仁元」氏の名は、『従業物故者忌辰録』にあるが、「海山応龍」氏と「金山鍾云」氏の名はない。「金山鍾云」氏の本籍地は江原道麟蹄郡麒麟面とされている。一九九七年五月に麟蹄郡で聞きとりをしたさい、「金山鍾云」氏は一九四五年春に獄死したという証言を麟蹄邑に住む金石煥氏から聞いた。死因は心臓病とされていたという。「紀州鉱山一九四六年報告書」に「金山鍾云」氏が亡くなった日が記載されていないのはそのためであろう。「海山応龍」氏の本籍地は、江原道平昌郡平昌面とされている。一九九七年八月はじめに平昌郡で「海山応龍」氏のことを尋ね歩いたが、遺族にも知人にも出会うことができなかった。
 紀和町和気村の無住の本龍寺に、朝鮮人の遺骨五体がおかれている。


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2.紀州鉱山略史

2006年03月08日 | 紀州鉱山
 一九三四年一二月、石原産業海運が三重県入鹿村に、紀州鉱山を創業した。
一九三五年に、紀州鉱山の操業が開始されたが、この年一二月に、「石原産業紀州鉱山従業員八五名が、待遇改善を要求して同盟罷業を決行」したという。
一九三九年二月、日本軍が海南島を占領した。五月に石原廣一郎は、軍用機で海南島にはいり軍の護衛で資源調査をおこなった。八月に石原産業は、海南島の田独鉄山を独占し、翌年七月以後、鉄鉱石を日本に送りこんだ。
 四月、紀州鉱山に三和小学校が開校した。
三重県は「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづき、一九三九年度に二〇〇人、一九四〇年度に三〇〇人の朝鮮人の紀州鉱山への連行を承認した。石原産業の社史には、一九四〇年から「朝鮮に労務担当者を派遣し、同年の春、江原道から百名の労務者が来山(ママ)」したと書かれている。
一九四〇年五月に、石原産業は、北山川の三か所に発電用ダム建設を申請したが、地域住民が反対し、計画を中断させた。
一九四一年一月、紀州鉱山などの銅鉱石精錬をおこなう石原産業四日市工場が操業を開始した。都市地域での銅精錬は異例のことであった。この銅精錬所の建設は、日本国内の鉱山から採掘した銅だけでなく、「南方」で採掘した銅の精錬をも考慮にいれたものであった。四日市工場は、たんに日本国内鉱山の活性化のためだけでなく、石原産業が「南方」で事業拡大するための拠点として建設された。
操業開始後も四日市工場建設工事はつづけられ、工事現場には朝鮮人労働者の飯場があった。
五月二四日、紀州鉱山で朝鮮人労働者一一三人(あるいは一三〇人)が、米穀の増配を要求してストライキをおこなったという。その後、警察は「警察官にたいする暴行事件関係被疑者」として三〇人を逮捕し、そのうち「首謀者金子命坤外十二名」を、七月四日に「公務執行妨害並傷害罪」として「送局」した。
アジア太平洋戦争開始の五か月まえ、石原廣一郎は、「あの広い全南洋」を「開発すれば無盡蔵に物が出る」といい、「蘭領印度へわが皇軍が上陸する時には……親善訪問、親善上陸が成功したと発表になると思はれる」といっていた。
一九四二年一月に、日本軍がフィリピンを占領すると、その翌月、石原産業は、
日本軍が奪ったフィリピンのカランバヤンガン鉱山の鉄鉱の採掘を開始した。
この年二月に、京畿道長端郡から九九人の朝鮮人が紀州鉱山に強制連行
(「官斡旋」)された。中央協和会の文書は、「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづいて紀州鉱山に「雇入」された朝鮮人の総数は、一九四二年六月末までに五八二人であり、そのときの「現在数」は二二八人であるとしている。
一九四二年八月、紀州鉱山から阿田和まで索道がつくられ、索道による鉱石の輸送が始められた。
一九四三年一月、江原道伊川郡などから七五人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)された。 この年四月、三重県協和会鵜殿支部(支部長鵜殿警察署長)が紀州鉱山の紀州会館で、第三回総会を開いたという。紀州鉱山は鵜殿警察署の管内であった。七月には、阿田和国民学校で、鵜殿警察署管内の朝鮮人にたいして「徴兵実施を前提とした錬成教育」がおこなわれたという。この年六月、石原産業海運は、石原産業と改称した。九月に江原道平昌郡などから九九人が、一二月に江原道旌善郡から九〇人が強制連行(「官斡旋」)された。一九四三年ころから、「学徒勤労動員報国隊」が紀州鉱山で働きはじめたという。
一九四四年四月、紀州鉱山板屋会館で協和会鵜殿支部の総会が開かれ、三重県警察本部長代理、鵜殿警察署長、紀州鉱山の役員らが「増産に挺身するよう訓示」した。このころから紀州鉱山で、朝鮮人労働者の「逃亡者が続出」したという。
石原産業は、一九四四年に四日市工場内に、朝鮮人労働者の宿舎として「協和寮」を新築した。五月、慶尚北道安東郡から二八人、軍威郡から二九人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)された。六月、イギリス軍「捕虜」三〇〇人が強制連行され、板屋につくられた名古屋俘虜収容所第四分所に入れられた。七月、板屋にある朝鮮人の宿舎「八紘寮」で闘争。 八月に、江原道鉄原郡から七七人が、一一月に、江原道麟蹄郡などから九八人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
一二月に、石原産業四日市工場にイギリス軍・USA軍・オランダ軍・オーストラリア軍の「捕虜」約六〇〇人が連行され、工場内に設置された名古屋俘虜収容所第五分所に入れられた。三重県内の俘虜収容所は、紀州鉱山と四日市工場の二か所であった。
一九四四年一二月末に、三重県に住む朝鮮人は二五一六〇人で、そのうち鵜殿警察署管内の朝鮮人は二二八八人であったという。一九四五年一月二五日に、協和会鵜殿支部が鵜殿興生挺身隊と改称され、紀州鉱山板屋会館で結成式がおこなわれた。
 一九四五年一月、江原道平昌郡などから九八人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
五月、江原道原州などから三六人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
USA軍の爆撃が激しくなったので、石原産業は、日本軍の指示によって、六月に、四日市工場の「捕虜」の半数を北陸地方へ「転任」させた。六月二六日夜のUSA軍の爆撃によって、四日市工場は操業不能となった。
「八・一五」のあと、九月四日に、四日市工場の名古屋俘虜収容所第五分所に入れられていたUSA軍、イギリス軍、オランダ軍の「捕虜」二九五人が小牧飛行場から帰国の途につき、その数日後、紀州鉱山の名古屋俘虜収容所第四分所に入れられていたイギリス軍「捕虜」二八四人が板屋を出発した。
朝鮮人にかんしては、「八・一五」のとき、紀州鉱山と四日市工場に朝鮮人が何人いたかも、帰郷の時期も、はっきりしていない。
 同年一二月、石原廣一郎が、A級戦犯容疑で逮捕され、後任社長小山卓次郎も公職追放となった。石原産業は、軍事的性格・侵略的性格が強い企業であった。
一九四六年二月一日に、紀州鉱山労働組合が、二月一〇日に、石原産業四日市工場労働組合が結成された。
紀州鉱山は一九七八年に閉山したが、そこで働き、重症の珪肺病で苦しんだ人びとは、閉山のときまで、石原産業に賠償を求める訴訟をおこすことができなかった。石原産業は紀州鉱山でも四日市工場でも有毒物をだしつづけ、四日市工場は一九八〇年に公害企業として有罪判決を受けた。
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紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働について

2006年03月07日 | 紀州鉱山
1.はじめに

一九二六年一月に、三重県熊野市(当時、木本町)で県道のトンネル工事のために働きにきていた朝鮮人労働者を、在郷軍人らを先頭とする地域住民が襲撃し、イギユン氏とペサンド氏を惨殺し、襲撃をのがれた朝鮮人とその家族を住民が徹夜で山狩りした。その後、以前から木本町に住んでいた朝鮮人をふくめ、朝鮮人全員が木本町から追放された。
この「事件」を『熊野市史』中巻(一九八三年、熊野市)では「木本トンネル騒動」あるいは「木本隧道工事のさいの朝鮮人騒動」といい、熊野市民の朝鮮人襲撃・虐殺を「素朴な愛町心の発露」であるとしている。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会では、一九八九年の会結成以後、これまで九年間、熊野市と熊野市教育委員会に『熊野市史』の書きかえと謝罪を要求しつづけている。

三重県熊野市の西隣に紀和町がある。紀和町の北を北山川が、西を熊野川が流れ、熊野川の対岸は、和歌山県熊野川町と新宮市である。紀和町には紀州鉱山があった。一九四〇年秋、紀州鉱山から逃亡しようとした朝鮮人が、熊野川で水死した。
紀州鉱山は鉱毒を流しつづけ、一九七八年に閉山した。紀和町の中心部を流れる板屋川には、閉山後二〇年近くが過ぎたいまも魚がいない。一九九五年四月、紀和町は石原産業から提供された紀州鉱山事務所の跡地に鉱山資料館を設立した。その二階には、紀州鉱山事務所の一室が復元され、その入口の壁に、石原産業の創業者石原廣一郎を「広く南方各地で地下資源の開発を進める一方、一九三四年から紀和鉱山の開発に着手し、これを全国屈指の大鉱山に成長させて紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげました」(原文は「元号」使用)とする説明が掲げられている。
しかし、実際には、石原廣一郎は、日本軍のアジア侵略に密着して中国や東南アジアの各地から、略奪的に鉱物資源を日本に運びこんでいた。かれは、一九四五年一二月から一九四八年一二月の東条英機らの処刑の翌日まで三年間、A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されている。

かつて、紀州鉱山には、朝鮮の各地から強制連行された人びとが働かされていた。紀州鉱山で朝鮮人は、「日本臣民にして産業戦士」として「皇国臣民の誓詞」を「奉誦」させられた。朝鮮人労働者が住んでいた紀州鉱山の「八紘寮」で、日本の敗戦一年まえの七月に朝鮮人労働者は、怒りを行動で示した。そのとき逮捕された八人は、全員が木本区裁判所で有罪判決をうけた。
しかし、紀和町の鉱山資料館には、朝鮮人強制連行・強制労働の事実を伝える資料がまったく展示されていないだけでなく、紀州鉱山でおおくの朝鮮人が働いていたという事実すら、入館者がはっきり知ることができるように展示がなされていない。紀和町は、一九九三年に紀和町史編さん委員会編『紀和町史』下巻を発行したが、ここにも紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実はほとんど書かれていない。アジア太平洋戦争をマラヤのコタバル奇襲で始めた日本軍は、マラヤやシンガポールでイギリス軍兵士を「捕虜」にした。かれらは、「泰緬鉄道」工事などで酷使された。この工事の際、事故、栄養失調、マラリアなどで死んだ人は、一万人以上の「捕虜」をふくめ数万人あるいは一〇万人ちかいといわれている。一九四四年六月に、生き残ったイギリス軍「捕虜」のうち三〇〇人が紀州鉱山まで連行され強制労働させられ、そのうち一六人が「八・一五」までに事故あるいは病気で命を失わされた。紀和町教育委員会は、死亡した一六人のイギリス軍「捕虜」の墓のある場所を整備し、一九八七年に「史跡 外人墓地」とし、紀和町はそこを「文化財」に指定している。紀和町も紀和町教育委員会も紀和町民が作った紀南国際交流会も、イギリス軍「捕虜」のことは問題にしても、紀州鉱山での朝鮮人労働者の労働実態や朝鮮人労働者の死者については、明らかにしようとしていない。
紀州鉱山で朝鮮人労働者が何人働き、その家族が紀和町に何人すんでいたかも、いまなお明らかにされていない。

石原産業は、イギリス軍「捕虜」にかんしては述べても、朝鮮人を強制連行した事実は、あいまいにしている。その社史には、紀州鉱山で働いていた「半島労務者、捕虜、臨時夫等」の数として、次表のような数字が示されているが、信用しがたい。

紀州鉱山で働いていた「半島労務者、捕虜、臨時夫等」の数
  各年六月末
一九三六年 二四人
一九三七年 二五人
一九三八年 一九人
一九三九年 四一七人
一九四〇年 四七六人
一九四一年 四八六人
一九四二年 四一〇人
一九四三年 六五三人
一九四四年 二二二人
一九四五年 二七人

石原産業株式会社社史編纂委員会編刊『創業三十五年を回顧して』一九五六年、一一三頁朝鮮人を虐殺した在郷軍人などの行為を「素朴な愛町心の発露」とする熊野市・熊野市教育委員会の姿勢は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実をあいまいにしている紀和町・紀和町教育委員会および石原産業の姿勢と重なっている。

日本政府だけでなく、日本の各地域の行政機関は、日本の他地域・他国侵略の過去を事実どおりにみとめようとしていない。都道府県市町村史のおおくで、侵略を肯定する記述がなされている。また、大小の日本企業は他地域・他国侵略の過去を反省せず、謝罪も賠償もしようとしていない。
以下で、石原産業と紀和町に焦点をあわせて、現在の日本の行政機関、企業の侵略責任(植民地支配責任・戦争責任・戦後責任)の問題を分析したい。これは、謝罪・賠償なしに二一世紀を迎えようとする日本政府に加担する「女性のためのアジア平和国民基金」などの策動を阻止する民衆の研究と運動の展望をいくらかでも明らかにしていく作業のひとつでもある。

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「木本事件」関連年表

2006年03月05日 | 木本事件
事件当時

1925年
1.16 木本トンネル工事開始。多い時には、200人以上の朝鮮人が働く
12.23 木本町の隣りの有井村で大火。朝鮮人労働者、鎮火に協力
1926年
1. 3 イギユン氏とペサンド氏が虐殺される。そののち熊野市民、徹夜
   で山狩り
1. 6 朝鮮で、『朝鮮日報』、『東亜日報』が、「事件」の第一報報道
1. 7 朝鮮人労働者約20人が予審裁判にかけられる
1.12 朝鮮総督府、「木本事件」の新聞報道に「封鎖令」
1.15 イギユン氏とペサンド氏の遺体火葬
   朝鮮人全員(木本警察署に拘留されていた朝鮮人労働者と、町役
   場にあつめられていた家族)が「追放」
1.18 在日朝鮮人諸組織が三重県事件調査会結成
1.21 朝鮮総督府警務局、「木本事件」の経過を発表。朝鮮の各紙報道
   ペサンド氏の遺骨を実弟が町役場でうけとる
    朝鮮で、朝鮮労農総同盟主催「三重県事件調査会」創立集会禁止
1.22 朝鮮日報の東京駐在員が木本で調査
1.24 辛泰嶽ら朝鮮人調査員3人、三重県委員長上田音市と木本へ
2初  布施辰治、報告書「日本三重県木本町朝鮮人撲殺事件内容」発表
2.10 在日本朝鮮労働総同盟・在東京朝鮮無産青年同盟会・三月会・
   一月会の朝鮮人4団体、檄文「三重県撲殺事件に際し全日本無産
   階級に訴ふ」配布
2.12 三重県事件調査会、東京で、「調査報告演説会」開催。官憲に
   よって報告は中止させられ、演説会強制解散
2.27 東京で、在日本朝鮮労働総同盟ら4団体、「三重県事件批判大演
   説会」開催。報告しようとした辛泰嶽ら10数人検束。集会強制解散
3. 1 大阪で、大阪朝鮮労働組合連合会、大阪朝鮮人新進会、「三重県
    同胞虐殺糾弾演説会」開催
3.16 一月会、総会で三重県〇〇事件国際糾弾演説会報告
5. 3 安濃津地方裁判所、「予審決定書」をだす。起訴:朝鮮人側15人、
    熊野市民17人(ただしこのうち16人は、すでに4月末以前に保釈)
5.  田中孫右衛門、極楽寺にふたりの「墓石」を建立
7.26 「木本トンネル」竣工式。旗行列
8. 2 安濃津地裁で第1回公判
8. 3 第2回公判。朝鮮人多数傍聴
9.28 論告求刑
10.30 判決。朝鮮人側4人が3年~1年6月の実刑(2人控訴)、11人執行猶予。
    熊野市民6人2年~6月の実刑(全員控訴)、10人執行猶予、1人自殺
1927年
3.  ペサンド氏の妻、金而敬氏が釜山警察署をつうじて木本警察署に
   「遺族扶助金」の問い合わせ(木本警察署は「規定」はないと返事)
1928年
11.  ヒロヒト即位「恩赦」で日本人すべて、出獄。ペ・サンド氏の殺害者は
    ついに逮捕されず


  「八・一五」ののち

1973年 谷川義一(「事件」当日、在郷軍人として現場にいた)「鮮人騒動の記」
     (『木本小学校百年誌』創立百年祭実行委員会公報部編著)
1978年 武上千代之丞(「事件」当時、『紀南新報』記者)
    「内鮮人土工乱闘事件始末」(武上千代之丞『奥熊野百年誌』自費出版)
1983年 岡本実「木本トンネル騒動」(熊野市史編纂委員会編『熊野市史』中巻、
    熊野市発行)

1988年
9.11 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(イギユン、ペサンド)の追悼碑を
     建立する会」準備会発足
10.  キムチョンミ「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」
   (『在日朝鮮人史研究』18号(アジア問題研究発行)
11. 3 ペサンド氏の二男ペギョンホン氏と連絡がとれる

1989年
1.28~29 熊野市で追悼会、第1回「現地調査」・現地交流会
4.22 ペギョンホン氏、韓国釜山から「事件」後はじめて、63年ぶりに来日
4.24 ペギョンホン氏、熊野市へ
   極楽寺の無縁墓地に離ればなれに置かれていたイギユン氏とペサンド氏
   の二つの「墓石」がいっしょにならべられる。追悼会
6. 4 大阪で「追悼碑を建立する会」結成集会。ペギョンホン氏再来日、出席
   『六十三年後からの出発』発行
6. 5 熊野市と「交渉」(以後、1992.11.3.まで16回)。『熊野市史』の書きかえ
  ・追悼碑建立への協力などを要求
8.  イギユン氏の故郷、慶州で遺族をさがす
11.26 指紋押捺拒否に連帯する三重の会と共催で講演会
  「木本事件と関東 大震災朝鮮人虐殺」

1990年
2.  熊野市教育委員会、『熊野市史』の「一部削除及び訂正」を購読者
   の一部に送付
5.23 奈良県生駒郡同和教育研究会21回総会で、「木本事件」について講演
6. 3 三重大学祭で、「木本事件」をテーマにした演劇上演
7.22~24 八尾トッカビ子ども会が、熊野市で追悼と「現地調査」
10.15 「木本事件」当時、朝鮮人と共にたたかって騒擾罪で裁判にかけられた
   杉浦新吉氏の遺族とはじめて会う
1991年
5.13付で、熊野市教育長と熊野市立木本小学校長に、『木本小学校百年誌』
 の書きかえ、学校教育の現場での「事件」のカリキュラム化などを要求
10. 6 追悼碑を建立する会、熊野地域の有志、熊野市の代表者で、碑文案
    検討開始
1992年
1.  「木本事件」が記述された『三重県史』資料編(近代4)出版
3.23  熊野市議会、追悼碑建立費として200万円の予算決議
10.28 熊野市、虐殺の責任を認めず、謝罪を拒否し、逆に会に「謝意」を
    求め、建立の日を「吉日」とした碑文案をだす
1993年
1.  追悼碑を建立する会は、熊野市と共に建立する碑と別個に碑を建て
   ることを決定

1994年
11.20 追悼碑除幕式
   (追悼碑を建立は10月23日。)

1995年
5.21 熊野市との話し合い。『熊野市史』『木本小学校百年誌』の書きかえ、
   学校教育での「木本事件」への取り組みなど、三項目を要望。熊野市立
   図書館への「木本事件」関連コーナー設置を、教育長承諾
6.12付で熊野市教育委員会、90年2月につづき、『熊野市史』の購読者の一部
   に「一部削除及び訂正」送付。しかし、その後、実際には、「一部削除
   及び訂正」はほとんど行なわれていないことが判明
6.14 ペギョンホン氏、亡くなる(享年74歳)
8.21付で熊野市、『熊野市史』の書きかえをする考えはないと回答
10. 1 熊野市との話し合い。「事件」関連資料を熊野市教育委員会に渡す
11.10 イギユン氏とペサンド氏の「墓石」、極楽寺から大阪人権博物館に
11.18 追悼碑建立1周年。追悼集会。「墓石」の複製を極楽寺に設置
11.18~19 熊野市と紀州鉱山で「現地調査」
12.13付で、熊野市教育委員会、市立図書館で「木本事件」関連資料を公開
   するという約束を破る文書をだす。「一部が公開展示に相応しいもの
   とは考えられない」というのが理由
12.19 約束違反を問いただす文書を熊野市教育委員会に送付

1996年
1.10付で、熊野市教育委員会から、「人権尊重と市民尊重を考え、公開展示は
     できないと判断した」という回答
2.   三重県の小学校教師がつくった教材「木本トンネルの碑」
    を中心に、6年生全クラスで「事件」について授業
6. 9 「追悼碑の建立と歴史教育を考える集い」(四日市市で)
7.   イギユン氏の故郷、慶州でふたたび遺族をさがす
11. 8 三重県人権センター開館(津市)。「木本事件」の常設展示設置
11.16 追悼碑建立2周年。追悼集会。参加者全員が、熊野市に、
   1.遺族に謝罪すること、
   2.虐殺の事実を明らかにし『熊野市史』を書きかえることなどを
   もとめる抗議・要請文をだすことを決定
11.17 熊野市に抗議・要請文。紀州鉱山で「現地調査」
12.  韓国江原道旌善で「現地調査」

1997年
1.28 熊野市長と教育長に、『熊野市史』の書きかえ要請。熊野図書館長と
   教育委員会に、「木本事件」関係資料展示コーナーを市立図書館に
   設置することを要望
2. 9 紀州鉱山の真実を明らかにする会創立
3.31付で、熊野市図書館長・熊野市教育委員会から拒否回答
5.  韓国江原道麟蹄で「現地調査」
5.19 熊野市長・熊野市教育長、熊野市図書館長・熊野市教育委員会に、
  『熊野市史』書きかえなどにかんし誠意のある回答を要求
6.15付で、熊野市長・熊野市教育長から『熊野市史』書きかえの意志のない
趣旨の「回答」
*.* 全国図書館大会で熊野市立図書館での「木本事件」資料展示拒否を批判
8.  韓国江原道平昌で「現地調査」
11.15 追悼碑建立3周年。追悼集会
11.16 11.15.付で熊野市に抗議・要請文。紀州鉱山で「現地調査」
12.10 『中日新聞』、「・木本事件・碑補助金6年宙に浮いたまま」と報道
1998年
1.14 熊野市、遺族に謝罪しないと回答
3. 5 熊野市の回答に抗議し再回答要求
5. 7 熊野市、未執行の追悼碑建立の予算の扱いを今後慎重におこなうと、
    あいまいな回答
6. 海南島で「現地調査」
7. 韓国放送公社(KBS)、熊野市・紀州鉱山で取材。8月15日に放映
8. 韓国慶尚北道安東・軍威で「現地調査」
9. 韓国安東文化放送(MBC)現地取材。熊野市取材拒否
10. 安東MBC『紀伊半島に隠された真実』放映
11.15 追悼碑建立4周年。追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らか
   にする会・日本の侵略の歴史を知るわかやまの会共催で追悼集会
11.16 熊野市に抗議・要請文。紀州鉱山で「現地調査」

1999年
 3. 三重県立図書館、名張市立図書館が会の資料を収蔵・公開
 7. 6- 8.29 大阪人権博物館と会との共催で企画展「〃木本事件〃熊野から朝鮮人虐殺を問う」を開催
11.21-22 追悼碑建立5周年。追悼集会

2000年
11.18-19 追悼碑建立6周年。追悼集会・「木本事件」パネル展示
     極楽寺住職足立知典氏、「碑石」建立。会がその側に説明板を設置

2001年
11.24-25 追悼碑建立7周年。追悼集会・「木本事件」パネル展示

2002年
11.23-24  追悼碑建立8周年。追悼集会・「木本事件」パネル展示

2003年
11.22-23  追悼碑建立9周年。追悼集会・「木本事件」パネル展示

2004年    
11.27-28  追悼碑建立10周年。追悼集会・「木本事件」、海南島パネル展示

2005年
 9.     海南島「現地調査」(第9回)
12. 3- 4  追悼碑建立11周年。追悼集会 「木本事件」、海南島パネル展示

2006年1月はじめ現在
熊野市・熊野市教育委員会は、犠牲者を追悼しようとせず、遺族に謝罪しようとしていないだけでなく、朝鮮人襲撃・虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」としている『熊野市史』を書き換えようとしていない


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「木本事件」の頃の朝鮮と日本

2006年03月03日 | 木本事件
 「木本事件」が起こった頃の日本と朝鮮の関係はどうだったでしょうか?
1876年に日本は朝鮮に「江華島条約」※を結ばせ、それ以後朝鮮に対する侵略をおこなっていきました。徐々に日本は朝鮮から財政、外交、警察、軍事の権利を奪い、ついには1910年に武力により、無理矢理に朝鮮を日本に「併合」してしまったのです。また土地や食糧、資源などを奪い取るなどし、朝鮮の人たちの生活を苦しいものにしていきました。
やがて朝鮮を離れ、仕事を求め日本に働きに来ざるを得なくなった朝鮮人がいました。多くの朝鮮人が日本各地でトンネル、道路、鉄道、ダム等を作る工事をしていたのです。その中に殺されたイ・ギユン氏とペ・サンド氏もいました。1919年には、日本の植民地支配に抗議して朝鮮の人々は朝鮮各地で独立運動をおこない、多くの人々が日本軍に殺されました。
日本国内においても1923年に起こった関東大震災時に多くの朝鮮人、中国人が関東各地で軍、警察、地域住民らに殺されたのです。
三重県旧木本町でお二人が在郷軍人、消防組ら地域住民に殺されたのは、この3年後の1926年のことでした。

※ 江華島条約:
日朝修好条規とも呼ばれ、日本が朝鮮に無理矢理に結ばせたもの
で、日本の領事裁判権を認める治外法権や輸出入の無関税特権を
含み、また一方的に釜山の他二つを開港させるなどとした不平等
条約でした。


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白いトックがふみにじられていた 敬洪さんの記憶から

2006年03月02日 | 木本事件
あの日、わたしは姉とフロに行った。正月がくるというので、大きなフロに行こうといって、初めてフロ屋に行った。それまではフロ屋に行ったことはなく、家で体を洗っていた。
フロを出て、姉の背におぶわれて家にもどる途中、ちょうど橋の上まで来たときラッパの音が聞こえ、鉄砲の音が聞こえた。あたりはまだ暗くなりきっておらず、うす暗い感じだったような気がする。ラッパや鉄砲の音を聞いてわたしは、正月の行事がはじまったのかと思い、姉の背でよろこんで足をジタバタさせたことを覚えている。だが、すぐに、どこからか、
「朝鮮人はあぶないから、みんな逃げろ」
という声が聞こえた。
 その晩は、姉と、お寺にかくれて夜を明かした。小さなお寺だったように思う。
 次の朝、ひもじくなって、家にもどった。
住んでいたところは、メチャメチャになっていた。正月がくるというので作って、部屋につるしておいた細長い白いトックが、ちらばって、ふみにじられていた。家は大きなバラックだった。
事件があったのは、おおみそかだった、と思う。いままで、ずっと、一二月三一日を父の命日として、チェサ(祭祀)をしてきた。いまもそうだけど、あの当時も事件のことはかくされていて、ほんとうは一二月三一日なんだけど、かくしきれなくなって、一月三日に発表したのではないかと思う。事件が一月三日になっているということは、手紙や、当時の新聞を見て、昨年(一九八八年)一一月にはじめて知った。だが、わたしは、いまでも、事件があったのは、ほんとうは一二月三一日だったのではないか、と思っている。正月とか、なにか特別なことでもなかったら、はじめてフロに行くということはなかったと思う。
それから二、三日あとに、オモニにつれられてお寺に行った。オモニが泣くのを見た。どうして泣くのかわからなかった。
そこで、白い服を着た人らが、セメントのタルにおしこまれていた死体をひっぱり出して、板の上にのせて、ガーゼで顔をふき、あっちこっち包丁で切ったりしていた。死体は固くなっていたので、切るまえにのばしていた。遠くのほうから顔はみたけど、知らない顔だった。そばには近づけなかった。
 あとから考えると、わたしが長男だったから、立ち会わされたのではないかと思う。当時はオモニもだれも、アボヂが日本人に殺されたことは教えてくれなかった。 オモニは、アボヂは現場長だった、と言っていた。
アボヂが殺されたときはなにも知らず泣かなかったが、オモニが死んだときは泣くだけ泣いた。一〇歳のときだった。姉は、わたしが七歳のときに死んだ。一三歳だった。オモニは三五歳で死んでしまった。オモニが死んだとき、わたしは他人の家にいた。オモニが死んだということを聞いて、走りとうして家に帰ったが、すでに埋葬されたあとで、ここが墓だといってつれていかれた。いまはもう、オモニの墓がどこにあるかわからない。知っている人もいなくなってしまった。
オモニはいつも、「うらみをはらして」と言っていた。当時は、そのことの意味はわからなかったが。オモニは、アボヂが殺されたときのことを、わたしがもっと大きくなってから話そうとしていたのだと思う。そのまえに、亡くなってしまったのだろう。叔父(相度氏の弟、三度氏)は、事件についてひとことも話さなかった。姉の月淑は、栄養失調で、目が見えなくなって死んだ。姉もオモニもこころを痛めて死んだのだと思う。オモニは病気で死んだが、なんの病気かわからない。
アボヂも、オモニも、姉も、写真は一枚もない。当時は、写真をとる金はなかった。朝鮮人は米が食えなかった。朝鮮の米は、ぜんぶ日本に持っていかれた。
オモニが死んだあと何年かたって、かなり大きくなってから、しぜんと、アボヂが日本人に殺されたということがわかるようになった。そのことを知るのが遅くてよかった、といまは思っている。もっと早く知っていたら、日本人に憎しみをつのらせ、幼いときからもっと、もっと、苦しい思いをしたにちがいない。日本に墓石があるということは、去年(一九八八年)の一一月まで知らなかった。
わたしは、戸籍のうえでは大阪で生まれたことになっているが、ほんとうは、三重県のどこかで生まれたらしい。正確な場所はわからない。木本では、朝鮮人の子供は、わたしひとりだった。だから、ひとりで遊んだ。トンボをとったり、コオロギをとったり。ホタルもいた。魚つりもしたように思う。竹馬にものって遊んだ。いつもひとりだった。姉は学校へ行っていた。
一度、夏みかんを木からもいで食べたことがある。それをアボヂに見つかって、たたかれ、もう二度とするな、とひどくしかられた。アボヂのことで覚えているのはこれだけだ。顔は思いだせない。アボヂがいなくなってからいままで、こころの底から笑ったことは一度もない。
附記
相度さんは妻金而敬さんと子どもたち、月淑さん(一〇歳)、敬洪さん(四歳)、良淑さん(二歳)とともに木本で暮らしていました。「事件」後、木本の朝鮮人労働者とその家族は、木本を強制的に追い出され、父を殺された相度さんの家族も釜山に帰りました。
「事件」から六三年がたった一九八九年の四月、敬洪さんは、「事件」後はじめて木本を訪れました。ここに掲載した文章は、木本に入る前、敬洪さんが話してくれた「事件」当時の、そして「事件」後の家族の記憶を日本語に訳したもので
す。

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