三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

韓国江原道 での現地調査(1996年10月)

2006年03月30日 | 紀州鉱山
紀州鉱山に強制連行された人びとに会って話しをきかせていただくために、三重県
木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会の佐藤正人が、1996年10月」
に韓国江原道に行った。以下は、そのときの佐藤の報告の一部である。

「紀州鉱山1946年報告書」 による朝鮮人労働者の「退所事由」
「逃亡」    283人
「満期帰国」   35人
「終戦帰国」  302人
「帰国」     20人
「病気送還」   33人
「満期」     12人
「送還」     11人
「一時帰国」    8人
「応召」      1人
「入営帰国」    1人
「父死亡ノタメ帰国」1人
「家事都合」    3人
「業務上死亡」   1人
「公傷死」     2人
「病死」      3人
「解雇」      1人
「不明」「不詳」 13人
「四日市工場転出」 1人
記入なし     8人
計      738人

■なにを聞きとるのか
「紀州鉱山1946年報告書」に記載されている強制連行された朝鮮人729人のうち、
江原道を故郷とする人は、555人(76パーセント)である。そのおおくは、伊川郡
(62人)、鉄原郡(86人)、麟蹄郡(96人)、旌善郡(97人)、平昌郡(160人)の5郡の人であった(計501人。555人の90パーセント)。
今回は、もっともおおくの人が強制連行された江原道に行くことにした。伊川郡は、いまは軍事境界線の北側であり、鉄原は軍事境界線で南北に分断されており、いまはかんたんには行けない。それで、麟蹄、旌善、平昌の3郡にいくことにした(結果的には、麟蹄郡にしか行けなかった)。
江原道に向かう前、朴慶植先生にソウルで会い、聞きとりの方法や内容について、
相談した。それをもとにして、麟蹄で聞きとりをすすめる過程で、聞きとり項目を、次のように整理した。朴慶植先生によると、強制連行された朝鮮人の炭鉱からの「逃亡者」の比率は、平均35.5パーセントで、福岡では44パーセントだった(九州では80パーセントが「逃亡」した炭鉱もあった)という。

1.「徴用」の通知はどこからきたか。
「徴用」の通知から、出発までどのくらい時間があったか。その間なにをしたか。
2.麟蹄から紀州鉱山までの道程は? 具体的にだれがどのように「連行」したか。
途中の「処遇」は?
3.紀州鉱山でなにをやらされたか。労働条件は? 賃金はいくらだったか。その使い道は。故郷に送金できたか。
「労務係」の態度はどうであったか。暴力をふるわれたことはなかったか。
4.宿舎の名称、規模、状態は? 食事の質・内容は?
5.宿舎や労働現場での拘禁度は? 管理体制の実態は?
外出できたか。休日にはなにをしたか。
6.他の人びととの交流は。
麟蹄以外の地域から強制連行させられた朝鮮人と自由に接触できたか(朝鮮人が
何人くらい紀州鉱山にいるかわかったか……)。
イギリス人「捕虜」に会ったことがあるか。地域の日本人との接触は? 
日本人労働者との関係は?
7.事故は経験しなかったか。死者、負傷者は? 「逃亡」した人がいるという話
を聞いたことがあるか。つかまった逃亡者はいなかったか。
「逃亡」を考えたことはなかったか。
8.「八・一五」(解放)は、いつ知ったか。どのように知ったか。そのときの感想は。
9.いつ帰国したか。「八・一五」のあと帰国までなにをしたか。「八・一五」のあとの日本人の態度は。
10.帰国のさい、賃金、帰国手当、帰国費用(旅費、食費)……をうけとったか。
帰国の経路。11.故郷に帰って、まずなにをしたか。
  このほか、麟蹄地域での「創氏・改名」の実態について聞きました(名簿では、麟蹄郡から強制連行された96人のうち、11人が「創氏」していません)。
  こんかい、麟蹄郡から強制連行された人のうち、20人ちかいかたの消息がわかり、4人のかたに会って話しを聞かせていただくことができました。また、九州、
福島、岡山に強制連行された4人のかたからも話しを聞かせていただくことが
できました。
  麟蹄郡の行政単位は、麟蹄邑と瑞和面、北面、麒麟面、上南面、南面の5つの面からなっています。こんかいは、そのうち、麟蹄邑、瑞和面、北面、麒麟面に
いき、その事務所を訪問することができましたが、時間がたりず、上南面と南面に
はいくことができませんでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする