三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

第4回紀州鉱山「現地調査」 1998年11月

2006年03月28日 | 紀州鉱山
11月16日、朝8時半に皆でそろって宿所をでてすぐ近くの熊野市役所にいき、熊野市・熊野市教育委員会に要望書をわたし、10時すこし前に、紀和町役場に着いた。
紀和町・教育長との話しあいのあと、昼食。午後から、選鉱場跡に。
選鉱場は、高さ100メートルほどの丘の頂上から、斜面に階段状につくられていた。いまは、コンクリートの骨格だけが残っている。 その斜面を、のぼった。
70歳を越している金源植氏も金鍾鎬氏もいっしょだ。お二人は草や潅木やいばらで覆われた急な斜面を、同行した30代の「青年」よりも元気に、のぼっていかれた。
半分ほどのぼった時に、雨が降ってきた。
見下ろすと左側に鉱山資料館がみえる。そこはかつて紀州鉱山事務所の建物があった所。正面すこし右寄りの丘に薄く霧がかかっていた。そこには共同墓地があり、朝鮮人も埋められている。60年ほどまえには朝鮮人と日本人が住んでいた飯場がその近くにあった。
雨に濡れながら、韓国から訪ねてこられた金源植氏や金鍾鎬氏と見ているこの風景のなかで、かつて故郷から強制連行された朝鮮人が働いていた。
その風景を眺めながら、金源植氏は、日本の植民地とされていた時期に日本人が朝鮮でつくった工場やダムの規模の大きさを語る。
 朝鮮でも日本でもカラフトでも太平洋の島々でも、おおくの朝鮮人が働かされた。日本の他地域・他国侵略の歴史を総体的に把握しようとしなければ、紀州鉱山の歴史をくわしく知ることはできないだろう。
紀州鉱山を「現地調査」し、紀州鉱山の真実を歴史的に明らかにすることは、思想的にも現実的にも、紀州鉱山のみにかかわることではないということを、4回目の今年の「現地調査」のとき、わたしは強く感じた。
選鉱場の高台をおりて、鉱山資料館にいった。そこでは、朝鮮人の痕跡は消しさられている。これまでの「現地調査」を基礎とするわたしたちの運動によって、1999年からは、朝鮮人労働者について、この資料館でも事実が事実として示されていくだろう。
鉱山資料館をでてから、1943年に石原産業が建てた「慰霊塔」を見たあと、紀和町教育委員会指定「史跡 外人墓地」・「イルカボーイズ墓参記念碑」・毒水処理場・板屋朝鮮人飯場跡へいき、そこで、解散した。
 毎年の「現地調査」の場は、出会いの場であり別れの場もであった。今年は、
その場に朴慶植先生の姿がなかった。
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