三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「木本事件」の頃の朝鮮と日本

2006年03月03日 | 木本事件
 「木本事件」が起こった頃の日本と朝鮮の関係はどうだったでしょうか?
1876年に日本は朝鮮に「江華島条約」※を結ばせ、それ以後朝鮮に対する侵略をおこなっていきました。徐々に日本は朝鮮から財政、外交、警察、軍事の権利を奪い、ついには1910年に武力により、無理矢理に朝鮮を日本に「併合」してしまったのです。また土地や食糧、資源などを奪い取るなどし、朝鮮の人たちの生活を苦しいものにしていきました。
やがて朝鮮を離れ、仕事を求め日本に働きに来ざるを得なくなった朝鮮人がいました。多くの朝鮮人が日本各地でトンネル、道路、鉄道、ダム等を作る工事をしていたのです。その中に殺されたイ・ギユン氏とペ・サンド氏もいました。1919年には、日本の植民地支配に抗議して朝鮮の人々は朝鮮各地で独立運動をおこない、多くの人々が日本軍に殺されました。
日本国内においても1923年に起こった関東大震災時に多くの朝鮮人、中国人が関東各地で軍、警察、地域住民らに殺されたのです。
三重県旧木本町でお二人が在郷軍人、消防組ら地域住民に殺されたのは、この3年後の1926年のことでした。

※ 江華島条約:
日朝修好条規とも呼ばれ、日本が朝鮮に無理矢理に結ばせたもの
で、日本の領事裁判権を認める治外法権や輸出入の無関税特権を
含み、また一方的に釜山の他二つを開港させるなどとした不平等
条約でした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする