三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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白いトックがふみにじられていた 敬洪さんの記憶から

2006年03月02日 | 木本事件
あの日、わたしは姉とフロに行った。正月がくるというので、大きなフロに行こうといって、初めてフロ屋に行った。それまではフロ屋に行ったことはなく、家で体を洗っていた。
フロを出て、姉の背におぶわれて家にもどる途中、ちょうど橋の上まで来たときラッパの音が聞こえ、鉄砲の音が聞こえた。あたりはまだ暗くなりきっておらず、うす暗い感じだったような気がする。ラッパや鉄砲の音を聞いてわたしは、正月の行事がはじまったのかと思い、姉の背でよろこんで足をジタバタさせたことを覚えている。だが、すぐに、どこからか、
「朝鮮人はあぶないから、みんな逃げろ」
という声が聞こえた。
 その晩は、姉と、お寺にかくれて夜を明かした。小さなお寺だったように思う。
 次の朝、ひもじくなって、家にもどった。
住んでいたところは、メチャメチャになっていた。正月がくるというので作って、部屋につるしておいた細長い白いトックが、ちらばって、ふみにじられていた。家は大きなバラックだった。
事件があったのは、おおみそかだった、と思う。いままで、ずっと、一二月三一日を父の命日として、チェサ(祭祀)をしてきた。いまもそうだけど、あの当時も事件のことはかくされていて、ほんとうは一二月三一日なんだけど、かくしきれなくなって、一月三日に発表したのではないかと思う。事件が一月三日になっているということは、手紙や、当時の新聞を見て、昨年(一九八八年)一一月にはじめて知った。だが、わたしは、いまでも、事件があったのは、ほんとうは一二月三一日だったのではないか、と思っている。正月とか、なにか特別なことでもなかったら、はじめてフロに行くということはなかったと思う。
それから二、三日あとに、オモニにつれられてお寺に行った。オモニが泣くのを見た。どうして泣くのかわからなかった。
そこで、白い服を着た人らが、セメントのタルにおしこまれていた死体をひっぱり出して、板の上にのせて、ガーゼで顔をふき、あっちこっち包丁で切ったりしていた。死体は固くなっていたので、切るまえにのばしていた。遠くのほうから顔はみたけど、知らない顔だった。そばには近づけなかった。
 あとから考えると、わたしが長男だったから、立ち会わされたのではないかと思う。当時はオモニもだれも、アボヂが日本人に殺されたことは教えてくれなかった。 オモニは、アボヂは現場長だった、と言っていた。
アボヂが殺されたときはなにも知らず泣かなかったが、オモニが死んだときは泣くだけ泣いた。一〇歳のときだった。姉は、わたしが七歳のときに死んだ。一三歳だった。オモニは三五歳で死んでしまった。オモニが死んだとき、わたしは他人の家にいた。オモニが死んだということを聞いて、走りとうして家に帰ったが、すでに埋葬されたあとで、ここが墓だといってつれていかれた。いまはもう、オモニの墓がどこにあるかわからない。知っている人もいなくなってしまった。
オモニはいつも、「うらみをはらして」と言っていた。当時は、そのことの意味はわからなかったが。オモニは、アボヂが殺されたときのことを、わたしがもっと大きくなってから話そうとしていたのだと思う。そのまえに、亡くなってしまったのだろう。叔父(相度氏の弟、三度氏)は、事件についてひとことも話さなかった。姉の月淑は、栄養失調で、目が見えなくなって死んだ。姉もオモニもこころを痛めて死んだのだと思う。オモニは病気で死んだが、なんの病気かわからない。
アボヂも、オモニも、姉も、写真は一枚もない。当時は、写真をとる金はなかった。朝鮮人は米が食えなかった。朝鮮の米は、ぜんぶ日本に持っていかれた。
オモニが死んだあと何年かたって、かなり大きくなってから、しぜんと、アボヂが日本人に殺されたということがわかるようになった。そのことを知るのが遅くてよかった、といまは思っている。もっと早く知っていたら、日本人に憎しみをつのらせ、幼いときからもっと、もっと、苦しい思いをしたにちがいない。日本に墓石があるということは、去年(一九八八年)の一一月まで知らなかった。
わたしは、戸籍のうえでは大阪で生まれたことになっているが、ほんとうは、三重県のどこかで生まれたらしい。正確な場所はわからない。木本では、朝鮮人の子供は、わたしひとりだった。だから、ひとりで遊んだ。トンボをとったり、コオロギをとったり。ホタルもいた。魚つりもしたように思う。竹馬にものって遊んだ。いつもひとりだった。姉は学校へ行っていた。
一度、夏みかんを木からもいで食べたことがある。それをアボヂに見つかって、たたかれ、もう二度とするな、とひどくしかられた。アボヂのことで覚えているのはこれだけだ。顔は思いだせない。アボヂがいなくなってからいままで、こころの底から笑ったことは一度もない。
附記
相度さんは妻金而敬さんと子どもたち、月淑さん(一〇歳)、敬洪さん(四歳)、良淑さん(二歳)とともに木本で暮らしていました。「事件」後、木本の朝鮮人労働者とその家族は、木本を強制的に追い出され、父を殺された相度さんの家族も釜山に帰りました。
「事件」から六三年がたった一九八九年の四月、敬洪さんは、「事件」後はじめて木本を訪れました。ここに掲載した文章は、木本に入る前、敬洪さんが話してくれた「事件」当時の、そして「事件」後の家族の記憶を日本語に訳したもので
す。

コメント
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