三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2.紀州鉱山略史

2006年03月08日 | 紀州鉱山
 一九三四年一二月、石原産業海運が三重県入鹿村に、紀州鉱山を創業した。
一九三五年に、紀州鉱山の操業が開始されたが、この年一二月に、「石原産業紀州鉱山従業員八五名が、待遇改善を要求して同盟罷業を決行」したという。
一九三九年二月、日本軍が海南島を占領した。五月に石原廣一郎は、軍用機で海南島にはいり軍の護衛で資源調査をおこなった。八月に石原産業は、海南島の田独鉄山を独占し、翌年七月以後、鉄鉱石を日本に送りこんだ。
 四月、紀州鉱山に三和小学校が開校した。
三重県は「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづき、一九三九年度に二〇〇人、一九四〇年度に三〇〇人の朝鮮人の紀州鉱山への連行を承認した。石原産業の社史には、一九四〇年から「朝鮮に労務担当者を派遣し、同年の春、江原道から百名の労務者が来山(ママ)」したと書かれている。
一九四〇年五月に、石原産業は、北山川の三か所に発電用ダム建設を申請したが、地域住民が反対し、計画を中断させた。
一九四一年一月、紀州鉱山などの銅鉱石精錬をおこなう石原産業四日市工場が操業を開始した。都市地域での銅精錬は異例のことであった。この銅精錬所の建設は、日本国内の鉱山から採掘した銅だけでなく、「南方」で採掘した銅の精錬をも考慮にいれたものであった。四日市工場は、たんに日本国内鉱山の活性化のためだけでなく、石原産業が「南方」で事業拡大するための拠点として建設された。
操業開始後も四日市工場建設工事はつづけられ、工事現場には朝鮮人労働者の飯場があった。
五月二四日、紀州鉱山で朝鮮人労働者一一三人(あるいは一三〇人)が、米穀の増配を要求してストライキをおこなったという。その後、警察は「警察官にたいする暴行事件関係被疑者」として三〇人を逮捕し、そのうち「首謀者金子命坤外十二名」を、七月四日に「公務執行妨害並傷害罪」として「送局」した。
アジア太平洋戦争開始の五か月まえ、石原廣一郎は、「あの広い全南洋」を「開発すれば無盡蔵に物が出る」といい、「蘭領印度へわが皇軍が上陸する時には……親善訪問、親善上陸が成功したと発表になると思はれる」といっていた。
一九四二年一月に、日本軍がフィリピンを占領すると、その翌月、石原産業は、
日本軍が奪ったフィリピンのカランバヤンガン鉱山の鉄鉱の採掘を開始した。
この年二月に、京畿道長端郡から九九人の朝鮮人が紀州鉱山に強制連行
(「官斡旋」)された。中央協和会の文書は、「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづいて紀州鉱山に「雇入」された朝鮮人の総数は、一九四二年六月末までに五八二人であり、そのときの「現在数」は二二八人であるとしている。
一九四二年八月、紀州鉱山から阿田和まで索道がつくられ、索道による鉱石の輸送が始められた。
一九四三年一月、江原道伊川郡などから七五人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)された。 この年四月、三重県協和会鵜殿支部(支部長鵜殿警察署長)が紀州鉱山の紀州会館で、第三回総会を開いたという。紀州鉱山は鵜殿警察署の管内であった。七月には、阿田和国民学校で、鵜殿警察署管内の朝鮮人にたいして「徴兵実施を前提とした錬成教育」がおこなわれたという。この年六月、石原産業海運は、石原産業と改称した。九月に江原道平昌郡などから九九人が、一二月に江原道旌善郡から九〇人が強制連行(「官斡旋」)された。一九四三年ころから、「学徒勤労動員報国隊」が紀州鉱山で働きはじめたという。
一九四四年四月、紀州鉱山板屋会館で協和会鵜殿支部の総会が開かれ、三重県警察本部長代理、鵜殿警察署長、紀州鉱山の役員らが「増産に挺身するよう訓示」した。このころから紀州鉱山で、朝鮮人労働者の「逃亡者が続出」したという。
石原産業は、一九四四年に四日市工場内に、朝鮮人労働者の宿舎として「協和寮」を新築した。五月、慶尚北道安東郡から二八人、軍威郡から二九人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)された。六月、イギリス軍「捕虜」三〇〇人が強制連行され、板屋につくられた名古屋俘虜収容所第四分所に入れられた。七月、板屋にある朝鮮人の宿舎「八紘寮」で闘争。 八月に、江原道鉄原郡から七七人が、一一月に、江原道麟蹄郡などから九八人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
一二月に、石原産業四日市工場にイギリス軍・USA軍・オランダ軍・オーストラリア軍の「捕虜」約六〇〇人が連行され、工場内に設置された名古屋俘虜収容所第五分所に入れられた。三重県内の俘虜収容所は、紀州鉱山と四日市工場の二か所であった。
一九四四年一二月末に、三重県に住む朝鮮人は二五一六〇人で、そのうち鵜殿警察署管内の朝鮮人は二二八八人であったという。一九四五年一月二五日に、協和会鵜殿支部が鵜殿興生挺身隊と改称され、紀州鉱山板屋会館で結成式がおこなわれた。
 一九四五年一月、江原道平昌郡などから九八人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
五月、江原道原州などから三六人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)された。
USA軍の爆撃が激しくなったので、石原産業は、日本軍の指示によって、六月に、四日市工場の「捕虜」の半数を北陸地方へ「転任」させた。六月二六日夜のUSA軍の爆撃によって、四日市工場は操業不能となった。
「八・一五」のあと、九月四日に、四日市工場の名古屋俘虜収容所第五分所に入れられていたUSA軍、イギリス軍、オランダ軍の「捕虜」二九五人が小牧飛行場から帰国の途につき、その数日後、紀州鉱山の名古屋俘虜収容所第四分所に入れられていたイギリス軍「捕虜」二八四人が板屋を出発した。
朝鮮人にかんしては、「八・一五」のとき、紀州鉱山と四日市工場に朝鮮人が何人いたかも、帰郷の時期も、はっきりしていない。
 同年一二月、石原廣一郎が、A級戦犯容疑で逮捕され、後任社長小山卓次郎も公職追放となった。石原産業は、軍事的性格・侵略的性格が強い企業であった。
一九四六年二月一日に、紀州鉱山労働組合が、二月一〇日に、石原産業四日市工場労働組合が結成された。
紀州鉱山は一九七八年に閉山したが、そこで働き、重症の珪肺病で苦しんだ人びとは、閉山のときまで、石原産業に賠償を求める訴訟をおこすことができなかった。石原産業は紀州鉱山でも四日市工場でも有毒物をだしつづけ、四日市工場は一九八〇年に公害企業として有罪判決を受けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする