まもなく、20回目の追悼集会が開かれる。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会の準備会が結成された1988年9月11日から1994年10月23日の追悼碑建ち立ち上げまで、そして20回目の追悼集会まで、李基允さんと相度さんの短かった人生と生きた時代を考えながら過ごすなかで、多くの出会いがあった。
追悼碑が建立されてから、これまでの間に、追悼碑に関係の深い松島繁治さん、敬洪さん、朴慶植さん、竹本雄大さん、橋谷ますえさん、宮森幹男さん、張錠壽さん、朴仁祚さん、金唱律さんが亡くなった。いま、その、ひとりひとりが、語りかけてくるように感じる。
1994年5月1日に起工した追悼碑は、10月23日に建ち上がった。工事をしてくれたのは、極楽寺のすぐ前の松島石材店の松島秀和さんだった。松島秀和さんの父、松島繁治さんは、1988年初夏にはじめてわたしが熊野市を訪れたとき、極楽寺の無縁墓地にふたりの「墓石」があるはずだといい、その場所を教えてくれた人である。
そのとき、松島繁治さんは、わたしに、
「ふたりのことをちゃんとしてくれる朝鮮人が、かならず、いつか来ると思って待っていた。
事件のとき、わたしは、極楽寺墓地の前の家に住んでいた。部屋の窓からふたりの遺体
を見たことがある。むしろが、かぶされていた。事件の夜は、こわくて家にかくれていた。
その2年半ほどまえの大地震のときには、東京で丁稚奉公をしていた」
と話した。
松島さんは、極楽寺墓地の30段ほどの急な斜面にぎっしり積み上げられている1000個ほどの「無縁」の墓石のなかの李基允さんと相度さんの「墓石」のありかを教えてくれた。
追悼碑を建立する会が結成されると、松島さんは、たいへん喜び、「若かったらいっしょにやるのにのう」、と言い、事実調査のために、さまざまなかたちで協力してくれた。
あるとき、松島さんは、町の人に、「あんたは朝鮮人か」と言われたという。
追悼碑が建ち上がったその日、家で臥せていた松島さんは、追悼碑をぜひ見たいと言った。斉藤日出治さんが松島さんを背負い、わたしが後ろから支えて細い石段をのぼって、追悼碑の前に立った。それからわずか9日後の11月1日、松島繁治さんは、85歳で急死した。
木本虐殺2か月まえ、1925年10月に、李基允さんと相度さんが傷害罪容疑で不当に裁判にかけられたとき、松島繁治さんは、その裁判を傍聴し、ふたりを見たという(判決は、無罪)。松島繁治さんが亡くなり、ふたりの顔を覚えている人がいなくなった。李基允さんと相度さんの写真は残されていない。相度さんのむすめさんである月淑さんと木本小学校の同級生で仲の良かった橋谷ますえさんは、1989年4月25日に相度さんの孫の哲庸さんと会ったとき、月淑さんと「そっくりやのう」と繰り返した。
追悼碑が建立されてから8か月後の1995年6月14日、相度さんの遺児敬洪さんが、病死した。74歳だった。
この日、わたしは、敬洪さんに会いにソウルから釜山に行くことになっていた。その日、未明、電話があった。敬洪さんが朝4時半に亡くなったという。
金海飛行場からバスで入院しておられた釜山大学病院に行ったが、敬洪さんはすでに安置室をでて土葬の身支度を家族にしてもらっていて、お会いできなかった。
敬洪さんとはじめて連絡をとることができたのは、1988年11月だった。翌年4月に津で開かれた三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会「三重の会」の結成集会と6月に開かれた三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会の創立集会に出席していただくことができた。
そのとき、わたしは、長い時間、なんども敬洪さんに話を聞かせてもらった。「アボヂがいなくなってからいままで、こころの底から笑ったことは一度もない」といったときの、敬洪さんの表情。表すことばをわたしは持たない。
1998年2月13日に、朴慶植さんが事故死した。75歳だった。
朴慶植さんは、1978年に「思想団体 北星会、一月会について」(『海峡』八号、朝鮮問題研究会)で、事件を、三重県木本町における「日本人町民らによる朝鮮人労働者虐殺事件」と規定し、翌年1979年にだした『八・一五解放前 在日朝鮮人運動史』(三一書房)の「三重虐殺事件への抗議」と題する小節で事件のことを書いていた。わたしは、朴慶植さんの研究に先導されて、1988年10月に「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」(『在日朝鮮人史研究』18号、在日朝鮮人運動史研究会)を発表した。
朴慶植さんは、準備会のときから会に参加し、熊野市との話し合いにも出席したことがあった。追悼碑建立後、朴慶植さんは毎年かならず東京から追悼集会に参加されていたが……。
朴慶植さんが亡くなってから7か月後、9月7日に竹本雄大さんが病死した。まだ19歳だった。竹本雄大さんは、何年も闘病生活をしていたが、体調が少し良くなったとき、父の竹本昇さんと熊野に来て、追悼碑の草刈をした。
1932年4月29日(「天長節(天皇誕生記念日)」)に上海の祝賀会場で爆弾を投げ日本陸軍上海派遣軍司令官白川義則らを殺傷した尹奉吉さんは、5月25日に上海派遣軍軍法会議で死刑判決を受け、12月18日に金沢市に連行され、翌日銃殺され、市内の野田山の共同墓地に埋葬された。
その60年後の1992年12月19日に「尹奉吉義士暗葬の跡」に碑が建てられた。その碑を建てる運動の中心に朴仁祚さんがいた。李基允さんと相度さんを追悼する碑の土台石は、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑と同じ、岐阜県神岡の石である。
この石は、1994年6月に朴仁祚さんの知り合い金相基さんを、朴仁祚さんとわたしが神岡に訪ね、選んで譲っていただいたものである。神岡から熊野市までは、朴仁祚さんが運んでくださった。
2009年10月9日に、朴仁祚さんは急死した。82歳だった。9月末に金沢で久しぶりにお会いして、お元気なすがたに接したばかりだった。
2011年8月11日に、金唱律さんが病死した。61歳だった。金唱律さんは、兄の金蓬洙さんとともに、朝鮮人強制連行・強制労働の歴史の現場を「調査」し、準備会のときから三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会に参加していた。
会の創立集会や除幕集会のとき、金蓬洙・金唱律兄弟は、釜山から来た敬洪さんや哲庸さんを家族のように気遣った。哲庸さんはいまもふたりのことを、親しくサムチュン(叔父さん)と呼ぶ。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、木本虐殺の63年後に出発した。それから24年が過ぎ、ことしは、木本虐殺から87年後だ。
20回目の追悼集会をまえにして、追悼碑が建立されてから亡くなった人たちのことを考えると胸が痛くなる。李基允氏と相度氏を追悼する碑のまえで、わたしはいつも、多くの亡くなった人たちのことを考えてしまう。多くの李基允氏たち。多くの相度氏たち。
87年まえに朝鮮人とともにたたかった杉浦新吉さんは、わずかその6年9か月後の1932年10月に病死した。20回目の追悼集会の日に、杉浦新吉さんのむすめさんからの花の樹を追悼碑の前のムグンファ(むくげ)のそばに植える。ムグンファは、わたしの母から託されて19年前に植えたものだ。
それらの樹々は、朝鮮人と日本人がともに集うこの場で、育っていくだろう。
金靜美
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会の準備会が結成された1988年9月11日から1994年10月23日の追悼碑建ち立ち上げまで、そして20回目の追悼集会まで、李基允さんと相度さんの短かった人生と生きた時代を考えながら過ごすなかで、多くの出会いがあった。
追悼碑が建立されてから、これまでの間に、追悼碑に関係の深い松島繁治さん、敬洪さん、朴慶植さん、竹本雄大さん、橋谷ますえさん、宮森幹男さん、張錠壽さん、朴仁祚さん、金唱律さんが亡くなった。いま、その、ひとりひとりが、語りかけてくるように感じる。
1994年5月1日に起工した追悼碑は、10月23日に建ち上がった。工事をしてくれたのは、極楽寺のすぐ前の松島石材店の松島秀和さんだった。松島秀和さんの父、松島繁治さんは、1988年初夏にはじめてわたしが熊野市を訪れたとき、極楽寺の無縁墓地にふたりの「墓石」があるはずだといい、その場所を教えてくれた人である。
そのとき、松島繁治さんは、わたしに、
「ふたりのことをちゃんとしてくれる朝鮮人が、かならず、いつか来ると思って待っていた。
事件のとき、わたしは、極楽寺墓地の前の家に住んでいた。部屋の窓からふたりの遺体
を見たことがある。むしろが、かぶされていた。事件の夜は、こわくて家にかくれていた。
その2年半ほどまえの大地震のときには、東京で丁稚奉公をしていた」
と話した。
松島さんは、極楽寺墓地の30段ほどの急な斜面にぎっしり積み上げられている1000個ほどの「無縁」の墓石のなかの李基允さんと相度さんの「墓石」のありかを教えてくれた。
追悼碑を建立する会が結成されると、松島さんは、たいへん喜び、「若かったらいっしょにやるのにのう」、と言い、事実調査のために、さまざまなかたちで協力してくれた。
あるとき、松島さんは、町の人に、「あんたは朝鮮人か」と言われたという。
追悼碑が建ち上がったその日、家で臥せていた松島さんは、追悼碑をぜひ見たいと言った。斉藤日出治さんが松島さんを背負い、わたしが後ろから支えて細い石段をのぼって、追悼碑の前に立った。それからわずか9日後の11月1日、松島繁治さんは、85歳で急死した。
木本虐殺2か月まえ、1925年10月に、李基允さんと相度さんが傷害罪容疑で不当に裁判にかけられたとき、松島繁治さんは、その裁判を傍聴し、ふたりを見たという(判決は、無罪)。松島繁治さんが亡くなり、ふたりの顔を覚えている人がいなくなった。李基允さんと相度さんの写真は残されていない。相度さんのむすめさんである月淑さんと木本小学校の同級生で仲の良かった橋谷ますえさんは、1989年4月25日に相度さんの孫の哲庸さんと会ったとき、月淑さんと「そっくりやのう」と繰り返した。
追悼碑が建立されてから8か月後の1995年6月14日、相度さんの遺児敬洪さんが、病死した。74歳だった。
この日、わたしは、敬洪さんに会いにソウルから釜山に行くことになっていた。その日、未明、電話があった。敬洪さんが朝4時半に亡くなったという。
金海飛行場からバスで入院しておられた釜山大学病院に行ったが、敬洪さんはすでに安置室をでて土葬の身支度を家族にしてもらっていて、お会いできなかった。
敬洪さんとはじめて連絡をとることができたのは、1988年11月だった。翌年4月に津で開かれた三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会「三重の会」の結成集会と6月に開かれた三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会の創立集会に出席していただくことができた。
そのとき、わたしは、長い時間、なんども敬洪さんに話を聞かせてもらった。「アボヂがいなくなってからいままで、こころの底から笑ったことは一度もない」といったときの、敬洪さんの表情。表すことばをわたしは持たない。
1998年2月13日に、朴慶植さんが事故死した。75歳だった。
朴慶植さんは、1978年に「思想団体 北星会、一月会について」(『海峡』八号、朝鮮問題研究会)で、事件を、三重県木本町における「日本人町民らによる朝鮮人労働者虐殺事件」と規定し、翌年1979年にだした『八・一五解放前 在日朝鮮人運動史』(三一書房)の「三重虐殺事件への抗議」と題する小節で事件のことを書いていた。わたしは、朴慶植さんの研究に先導されて、1988年10月に「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」(『在日朝鮮人史研究』18号、在日朝鮮人運動史研究会)を発表した。
朴慶植さんは、準備会のときから会に参加し、熊野市との話し合いにも出席したことがあった。追悼碑建立後、朴慶植さんは毎年かならず東京から追悼集会に参加されていたが……。
朴慶植さんが亡くなってから7か月後、9月7日に竹本雄大さんが病死した。まだ19歳だった。竹本雄大さんは、何年も闘病生活をしていたが、体調が少し良くなったとき、父の竹本昇さんと熊野に来て、追悼碑の草刈をした。
1932年4月29日(「天長節(天皇誕生記念日)」)に上海の祝賀会場で爆弾を投げ日本陸軍上海派遣軍司令官白川義則らを殺傷した尹奉吉さんは、5月25日に上海派遣軍軍法会議で死刑判決を受け、12月18日に金沢市に連行され、翌日銃殺され、市内の野田山の共同墓地に埋葬された。
その60年後の1992年12月19日に「尹奉吉義士暗葬の跡」に碑が建てられた。その碑を建てる運動の中心に朴仁祚さんがいた。李基允さんと相度さんを追悼する碑の土台石は、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑と同じ、岐阜県神岡の石である。
この石は、1994年6月に朴仁祚さんの知り合い金相基さんを、朴仁祚さんとわたしが神岡に訪ね、選んで譲っていただいたものである。神岡から熊野市までは、朴仁祚さんが運んでくださった。
2009年10月9日に、朴仁祚さんは急死した。82歳だった。9月末に金沢で久しぶりにお会いして、お元気なすがたに接したばかりだった。
2011年8月11日に、金唱律さんが病死した。61歳だった。金唱律さんは、兄の金蓬洙さんとともに、朝鮮人強制連行・強制労働の歴史の現場を「調査」し、準備会のときから三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会に参加していた。
会の創立集会や除幕集会のとき、金蓬洙・金唱律兄弟は、釜山から来た敬洪さんや哲庸さんを家族のように気遣った。哲庸さんはいまもふたりのことを、親しくサムチュン(叔父さん)と呼ぶ。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、木本虐殺の63年後に出発した。それから24年が過ぎ、ことしは、木本虐殺から87年後だ。
20回目の追悼集会をまえにして、追悼碑が建立されてから亡くなった人たちのことを考えると胸が痛くなる。李基允氏と相度氏を追悼する碑のまえで、わたしはいつも、多くの亡くなった人たちのことを考えてしまう。多くの李基允氏たち。多くの相度氏たち。
87年まえに朝鮮人とともにたたかった杉浦新吉さんは、わずかその6年9か月後の1932年10月に病死した。20回目の追悼集会の日に、杉浦新吉さんのむすめさんからの花の樹を追悼碑の前のムグンファ(むくげ)のそばに植える。ムグンファは、わたしの母から託されて19年前に植えたものだ。
それらの樹々は、朝鮮人と日本人がともに集うこの場で、育っていくだろう。
金靜美