三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

杉浦哲栄さんとの出会い

2013年10月04日 | 木本事件
■六十三年後からの出発
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の結成は1989年6月だった。1926年1月の「木本事件」の63年5か月後だった。
 結成集会の日(6月4日)に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会準備会は、小冊子『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』を発刊した。
 それから1年半後、「木本事件」の65年後の1991年1月3日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1年半あまりの活動の報告を追記して、『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』の増補版を発行した。その「あとがき」のいちばん最後に、わたしは、
   「最近、杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんに会うことができました。
    杉浦新吉氏は、65年前のあの日、日本刀や銃剣などをもって襲撃してくる木本の在郷軍
   人らにたいして、朝鮮人労働者とともにたたかった日本人労働者のひとりです。「朝鮮・日
   本民衆の真の連帯」の一つの核心が、あの日にきずかれていました。
    1926年1月3日は、その意味では、しっかりと受け継ぐべきたたかいの出発の日でした」
と書いた。
 「木本事件」の63年後から出発した会は、追悼碑建立という課題を結成5年後の1994年に果たすことができた。
 追悼碑建立は、日本の他地域他国侵略という国家犯罪とそれをささえてきた日本企業の侵略犯罪の実体をあきらかにし、責任をとらせるべきものにとらせていくという運動のひとつの根拠地をきずくことだった。
 会結成から25年、追悼碑建立から19年、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は運動をつづけてきた。

■1990年・1994年・2013年
 当時の「予審決定書」に書かれていた「東牟婁郡川口村」という住所を手がかりにして、杉浦新吉氏の故郷を訪ねたのは、1990年10月5日だった。
 杉浦新吉氏は、1932年10月1日に病死しており、妹さんとむすめさんの杉浦哲栄さん(1930年生)から話を聞かせてもらった(そのときのことは、『会報』11号で報告し、今号に再掲載しました)。
 その1年後、1994年11月20日の追悼碑の除幕集会が近づいたとき、ふたたび杉浦哲栄さんを訪ね、除幕集会に来てくださいと誘ったが、体調が悪いということで参加されなかった。

 20回目の追悼集会をまえにして、きのう(10月3日)夕刻、19年ぶりに杉浦哲栄さんを訪ねた。
 杉浦哲栄さんは、お元気だった。熊野川町上長井の熊野川にそそぐ小口川の川岸の高台にある家は、白い大きな夕顔の花、白式部の花に囲まれていた。
 話しているうちに、少しずつ、お互いに記憶を取り戻していった。以前見せていただいた杉浦新吉氏のただ1枚の写真は、熊野那智大社で焼いたとのことだった。
 帰り際に、「今は足も悪くなっていて、20年目の追悼集会にはいけないが……」と、多額の寄金をしてくださった。固辞したが、「それでは心がやすまらない」といわれて、ありがたく受けとった。
 追悼碑のまえに花の樹を植えることにしよう。
                                金靜美  2013年10月4日記
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