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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における非軍人日本人の侵略犯罪 2

2012年02月28日 | 海南島史研究

■「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」

    「この討伐に尊い汗を――否、血を流した国民が、或いはその子孫が今から何年かの後、この道路が見事に

とりひろげられ、沿道に日本人の施設した文化が美しく華咲くのを見たなら、どのような感慨にうたれるであろう」、
    「私は何度も海南島の討伐道路を自動車で走りながら、軽井沢の高原を思い、伊豆の海岸を思い起した」、
    「こうした従順な、しかし極めて民度の低い民をいかに取扱ったものかについてもこの地で沢山の課題を授
   けられたように思う、しかし、私は今特に黎人の幼稚な生活について大して書く興味をもたない」。

 これは、円地文子(1905年~1986年)という日本人が、『婦人公論』1941年4月号に発表した「海南島の記」のなかの文章である。
 1941年1月から2月にかけて、円地文子は、長谷川時雨、尾崎一雄、熱田優子、宮尾重男、小山勝清、岸上美葵ら10人の団体(団長、古田中博日本海軍大佐)に入って、「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をした。
 1月19日に海口に着いた円地文子らは、海南島侵略日本海軍特務部に1週間宿泊し、周辺の日本軍部隊を「慰問」したあと、軍用車で三亜に行き、さらに軍用車で、「分遣隊」を「慰問」するために保亭に行った。その時のことを円地は、次のように書いている。
    「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊の討伐に従事する将士の労苦は想像の外と思わねばならぬ」、
    「海軍の設営隊の手で敷設された討伐道路がある。………沿道の一木、一草、一塊の土にも石にも私達の
   同胞の流した血と汗が凝っているのを感じないではいられない」。
 
 「海南島の記」の末部に、円地文子は、
    「私は現在、海南島の開拓に心身を砕いて従事していられる人々のすべてにも本当の意味の美しい文学を
   捧げられたらどんなにか大きい歓びであろうと思わずにはいられない」
と書いている。
 「本当の意味の美しい文学」の「文化的水準」について円地文子は、侵略軍兵士を「慰問」するために海南島に侵入する半年前、1940年8月に、『日本学芸新聞』の「新体制と文学」というアンケートのなかで、
     「ナチスの宣伝映画『最後の一兵まで』に見る文化的水準の高さを新体制と文学という課題の参考に供し
    たいと思います」
と語っていた。

 「海軍省の計畫による海軍の文芸慰問団」の団長として円地文子らと海南島に侵入した海軍大佐古田中博は、1941年4月に、
    「この島の敵匪討伐を一手に引受けて居る陸戦隊の苦心、労苦といふものには全く涙ぐましいものが多く、

感謝に堪えない」、
    「陸戦隊は山の中の第一線に入つて見ても、、実によく道を造つて自動車が通つて居ります」、
と語っていた(古田中博「海南島見たまゝ」、『海之日本』202号、海軍協会、1941年5月)。古田中はまた、
    「海南島の土人達は無学低級の農民で、而もなまけものと来て居るから折角廣い土地を持ちながら食料
   の自給が出来ない程である」、
    「海南島こそは神様が、その開拓を大和民族にのみ残されて居たものと堅く信ずると共に、之れを開発する
   ことは天意に報ゆるものと叫ばざるを得ない」
などとも語っていた(古田中博「海南島見聞記」、『海を越えて』1941年6月号、日本拓殖協会)。
                                                                                           佐藤正人