三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

月塘村の追悼碑・紀州鉱山の追悼碑

2008年02月11日 | 月塘村追悼碑
 わたしが、はじめて海南島に行ったのは、10年前、1998年6月だった。
 そのとき、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の一員として、主要には、海南島南部の田独鉱山に行き、そこで石原産業がおこなっていた企業犯罪を調査することを目的にしていた。
 三重県南部で紀州鉱山を経営していた石原産業は、1939年から朝鮮人を強制連行して働かせていたが、同じころ海南島でも海南人や朝鮮人を強制労働させていた。
 海南島に出発する準備をしているとき、わたしは、たまたま中国史学会・中国社会科学院近代史研究所編『抗日戦争』(四川大学出版社、1997年6月)を見た。そこには、海南島の「朝鮮村」に日本軍によって虐殺された朝鮮人がいまも埋められていると書かれてあった。
 海南島に着いた翌日、わたしは田独鉱山に行く前に、「朝鮮村」に行った。朝鮮人が埋められているという村の中央部の広い台地には、一面に豆などが植えられていた。その場所に案内してくれたひとは、どこを掘っても、骨が出てくる、と言った。
 日本にもどってからわたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間とともに、集中的に、「朝鮮村」に埋められている朝鮮人のことを調べた。
 この人たちは、日本支配下の朝鮮の刑務所から、「朝鮮報国隊」と名づけられて海南島に送られた人たちだった。朝鮮総督府の資料によれば、「朝鮮報国隊」は、約2000人が海南島に強制連行され、約1割の人たちしか、帰郷できなかった、と考えられる。「朝鮮報国隊」の人たちは、田独鉱山でも働かされていた。さらに、その後の調査で、「朝鮮報国隊」の人たちが、海南島各地の軍事施設などで、働かされたことがわかった。「朝鮮報国隊」として海南島に強制連行され、幸いに帰郷することができた数人に、韓国で話を聞かせていただくことができ、海南島に強制連行された経緯、海南島での労働の状況などが少しづつ、明らかになった。
 2004年に紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』を制作したが、それは、「朝鮮報国隊」に焦点を合わせたものであった。
 2007年8月5日に、海南島近現代史研究会が結成され、海南島の近現代史研究は新しい段階にはいった。月塘村での追悼碑建立に具体的に協力することもできることになった。
 この年、10月末にはじめて月塘村を訪れたわたしを朝鮮人だと知った村人たちは、“同じ歴史を経験したあなたたち朝鮮人は仲間だ”と言って、抱擁するように歓待してくれた。 
 ことし、3月9日に、紀州鉱山で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、朝鮮人犠牲者を追悼するはじめての集会を開く。この集会を契機にして、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山に追悼碑を建立しようとしている。
 1894年の清日戦争直前の朝日戦争にはじまり1945年8月にいたる朝鮮での国家犯罪にたいし、国民国家日本は、いまだその歴史的責任をはたしていない。
 1939年2月から1945年8月までの海南島での国家犯罪にたいし、国民国家日本は、その歴史的責任をはたそうとするどころか、その犯罪事実を隠蔽しつづけてきた。
 月塘村の追悼碑と紀州鉱山の追悼碑。ふたつの追悼碑は、日本のアジア太平洋侵略の歴史を示すものでもある。 
                                                キムチョンミ
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