何子佳さん(1923年生)は、こう話しました。
「日本軍が村を包囲したとき、わたしは家にいた。わたしは、家を出て村はずれまで逃げ
たが、そこにも日本軍がいた。それでひきかえして途中の川に入り、対岸に泳いで渡った。
それで運よく逃げだすことができた。日本軍は、龍滾や中原から来た。
あの日、父が殺され、妹二人が殺され、伯母が殺され、めい二人が殺された。日本兵はみ
んなを殺したあと火をつけて焼いた。まだいきているうちに焼かれた人もいたと思う。父
の名は、何君輝。53歳だった。日本軍がいなくなってから家にもどって、父の遺体を見た。
母は逃げることができた。兄は当時シンガポールに行っていたので助かった」。
何君範さん(1935年生)は、こう話しました。
「まだ小さかったが、あのときのことは、よく覚えている。忘れることができるはずがな
い。日本兵は機関銃や小銃や日本刀をもっていた。
何君志と何君日の家に入った日本兵は、家に火をつけたあと、ひとりずつ殺し始めた。
わたしは、腕と腹と背中を刺された。右の口元も切られた。日本兵は、わたしのような子
どもも平気で殺した。わたしを刺した日本兵は20歳くらいに見えた。刺されたあとわたしは
気を失ったが、熱いので意識がもどった。日本兵はいなくなっていた。全身が血まみれにな
っていた。まわりが燃えていた。日本軍が火をつけたのだ。
父はあの日、薬を売りに出かけていて助かった。母(馮崇波)も父といっしょだった。二
番目の姉は家にいて殺された。わたしの家で最初に殺されたのは弟だった。名前は何君鴻。
1歳半くらいになっていて、よちよち歩きをしていた。とても可愛いかった。日本兵は、あ
んな小さな子を生きたまま火で焼き殺したのだ。
妹も殺された。まだ生まれてから4、5か月だった。遺体がみつからなかったので、どのよ
うに殺されたか、わからない。
あのとき、姉が2人、兄が1人、弟が1人、妹が1人、伯母が1人、兄嫁が1人、殺された。わ
たしは4男だ。もうひとりの姉は、あの日別の家にいて、日本兵が来たとき水がめに隠れて
助かった。
父と母が帰ってきて、みんなでずいぶん泣いた。
母はよく働く人だったが、それから人が変わったようにすっかり気力を無くしてしまい、
まもなく死んでしまった。41、42歳だった」。
話し終わってから、何君範さんは、わたしたちに腕と腹と背中の傷を見せてくれました。
くちびるの左上には3センチほどの傷跡が残っていました。日本兵に切られたあと数年間はうまく話すことができなかったそうです。
ほとんどの幸存者がそうなのですが、何君範さんも実に穏やかな表情で静かに話しました。
佐藤正人
「日本軍が村を包囲したとき、わたしは家にいた。わたしは、家を出て村はずれまで逃げ
たが、そこにも日本軍がいた。それでひきかえして途中の川に入り、対岸に泳いで渡った。
それで運よく逃げだすことができた。日本軍は、龍滾や中原から来た。
あの日、父が殺され、妹二人が殺され、伯母が殺され、めい二人が殺された。日本兵はみ
んなを殺したあと火をつけて焼いた。まだいきているうちに焼かれた人もいたと思う。父
の名は、何君輝。53歳だった。日本軍がいなくなってから家にもどって、父の遺体を見た。
母は逃げることができた。兄は当時シンガポールに行っていたので助かった」。
何君範さん(1935年生)は、こう話しました。
「まだ小さかったが、あのときのことは、よく覚えている。忘れることができるはずがな
い。日本兵は機関銃や小銃や日本刀をもっていた。
何君志と何君日の家に入った日本兵は、家に火をつけたあと、ひとりずつ殺し始めた。
わたしは、腕と腹と背中を刺された。右の口元も切られた。日本兵は、わたしのような子
どもも平気で殺した。わたしを刺した日本兵は20歳くらいに見えた。刺されたあとわたしは
気を失ったが、熱いので意識がもどった。日本兵はいなくなっていた。全身が血まみれにな
っていた。まわりが燃えていた。日本軍が火をつけたのだ。
父はあの日、薬を売りに出かけていて助かった。母(馮崇波)も父といっしょだった。二
番目の姉は家にいて殺された。わたしの家で最初に殺されたのは弟だった。名前は何君鴻。
1歳半くらいになっていて、よちよち歩きをしていた。とても可愛いかった。日本兵は、あ
んな小さな子を生きたまま火で焼き殺したのだ。
妹も殺された。まだ生まれてから4、5か月だった。遺体がみつからなかったので、どのよ
うに殺されたか、わからない。
あのとき、姉が2人、兄が1人、弟が1人、妹が1人、伯母が1人、兄嫁が1人、殺された。わ
たしは4男だ。もうひとりの姉は、あの日別の家にいて、日本兵が来たとき水がめに隠れて
助かった。
父と母が帰ってきて、みんなでずいぶん泣いた。
母はよく働く人だったが、それから人が変わったようにすっかり気力を無くしてしまい、
まもなく死んでしまった。41、42歳だった」。
話し終わってから、何君範さんは、わたしたちに腕と腹と背中の傷を見せてくれました。
くちびるの左上には3センチほどの傷跡が残っていました。日本兵に切られたあと数年間はうまく話すことができなかったそうです。
ほとんどの幸存者がそうなのですが、何君範さんも実に穏やかな表情で静かに話しました。
佐藤正人