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福田内閣メールマガジン(第46号 2008/09/04)が着信したのですが、これが最終便になると思います。ひどく難しいことが書かれていましたが、おそらく福田さんは記者会見の言葉、「自分を客観的に見られる、あなたとは違う」の解説をなさったのかも知れません・・・自分は常に「永遠の今」を見ているのだ、と・・・

ありがとうございました。福田康夫です。

 日本の古人の好んだ言葉に、「永遠の今」という表現があります。

 「過去のものは古いと蔑み、今のものは新しいと愛でる、しかし今の新しさが真に新しければ、その新しさは必ず時間を貫いて、いつまでも新しい。」

 1万年前の人類は、今と全く同じ太陽を見ています。海辺へ打ち寄せる波は一つとして古いものはなく、常に新しい波です。千数百年前の日本人と今の日本人は、今も昔も変わることのない、常に新しい伊勢神宮を見ています。

 太陽と海と伊勢神宮、この三つは、宇宙、自然、人が創ったもの、この違いはありますが、永遠の今です。

 私は、政策を立案する際、この「永遠の今」を想うことがありました。

 万人にあたたかい政策を途切れさせてはならない。万人のために常に新しい政策を提供しなければならない。政策が決して古くならないよう、いつも新しくあるよう、手入れを怠ってはならない。

 政策としてのアンサンブルが「永遠の今」を奏でている、このことを決して忘れてはならない、と思ったからです。

 立場上、政治とは何かとよく聞かれますが、「当たり前のことを当たり前に誠実に積み重ねていく」、常にこう答えています。

 国民の皆さんに提示し、そして実行する政策は、今だからこそ必要な即効性に富んだもの。近い将来に有益なもの。10年未来、100年未来の日本と日本国民に寄与するもの。そして、日本だけではなく、諸外国との関係をよく考慮したもの。

 政策にはアンサンブルが求められる、これが必須の条件だと考えています。

 私は、月曜日、総理大臣の職を辞する決意をいたしました。それは、国民の皆さんのための政策をより力強く進めていくためには、新しい体制を整えるべきであると考えたからにほかなりません。

 この1年間、メルマガを通じて、読者の皆さんからたくさんの率直な声をいただきました。今振り返れば、厳しいご批判も、温かい励ましも、毎週寄せられるご意見は、私が政策を進めるための大きな原動力でありました。

 今はただ、読者の皆さんへの感謝の気持ちでいっぱいです。1年間のご愛読、本当にありがとうございました。

今見ている太陽と海、1万年前と同じかどうか、太陽も消滅に向かって歳を刻み、海は汚れ続けているので、色即是空空即是色、私は違うと思っていますが、ここで何故伊勢神宮なんだと考えてみたら、式年遷宮というシステムで「永遠に今」が保存できるのだと気が付きました、人工的にそれを可能にする権威・権力が存在し、人民がそれを信仰している限りは・・・それが政治・まつりごとの理想だとおっしゃりたいのでしょうかね・・・

新しけりゃいいってもんじゃないし、古けりゃいいってもんでもない、でも、人が関わる文物で「古典」として残っているものは、それが全く反対の事を述べたり、表現しているようなものであっても、いずれも人の心の一番奥底にあるものを鋭くえぐり出していると思います。だからどの時代にも残り、読み返され、鑑賞され続ける。「人民の人民による人民のための・・・」、古典となる言葉を発することが出来るのが本物の政治家だと私は思います。だが、「言葉」を滅ぼしたいと願うとき、焚書坑儒を行なうのも政治です。

今日読んでいた竹中労さん関係の資料の中で、こんな言葉を見つけました、労さん逝去の直後に開催されたお別れの会パンフレットに記録されているファンから寄せられた弔文集とも言えるコラムの中にありました。
『実際におあいすることはなかったのですが 私やわたしと同じような者たちにとって、労さんは"言葉による人"でしたから、日付を超えて存在し続けるわけです。まだ竹中さんの本を読んでいない人にとっては、これからのいつかその文章に触れた時、また"生まれる"のです、幾度となく。(堺市・24才)』
私は福田さんのメールマガジンを読んだ時に、この文章を思い出し、竹中労さんこそ常に新しい「永遠の今」、私は甲府に来てその人と出会えた事を嬉しく思っています、せめて自らにだけは恥じなく眠るために。



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