21日、甲府市ホームページの記事で面白い企画に気が付きました。「パノプティコン」という演劇が、「つどうわ」で開催されるというニュースです。
詳細は甲府市ページを見れば分かるので省きますが、見ても何のイベントなのか分からない公演案内のホームページも出来ています、携帯番号だけしか無いから本拠地は不明ですが、2004年12月に東京中野にあるLive Space planBで公演という記事、さらに探せばあるのが情報です~「巨木イン山梨とか」に「山梨出身の矢崎香ちゃんがロンドンのお友達と立ち上げた愉快なカンパニー」と。これで納得としておきます。
私が関心をもったのは、panopticon というタイトルです。「パノプティコン」とは、イギリスの法学者ジェレミー・ベンサムが1791年に発表した画期的な監獄のアイデア。円形の建物の周囲に独房を配置し、中央の吹き抜けの空間に建てられた監視塔からすべての独房を監視できるように考えられた仕掛け。
pan-opticon、 ギリシャ語の「pan(全体の)」と「opikos(目の、視覚の)」から作られた造語とのことです。
さて、この監視社会をも連想させるコンセプトについて、建築家の黒川紀章さんが、この言葉を使っておられる一節がありました。--全文英文です
In the Postmodern age the spell of the teacher's gaze on our backs will be broken. I call this, in contrast to the model of Bentham's Panopticon, the age of the third classroom. In the first classroom, the teacher stands in front. In the second classroom, we feel the teacher looking at us from behind. In the third classroom, there is no teacher, real or perceived, in the front or at the back of the classroom. That is the Postmodern age.
拙訳ですが・・・『ポストモダンの時代に、私たちを背中から監視する教師の視線は潰えるでしょう。 私はこれを、ベンサムのPanopticonと対比して、教室の第3世代と呼びます。 第1世代の教室では、教師が前部に立ちます。 第2世代教室では、私たちは、教師が後ろから私たちを見ていると感じます。第3世代の教室では、私達の前にも後ろにも監視している教師だと認識できるような者はいません。 それがポストモダンの時代です。』
ここまでくると、私のこのブログ記事のカテゴリーを「アート・文化」から「デジタル・インターネット」に変更したくなります(^o^)
リアル・パノプティコン 江渡 浩一郎というホームページが見つかりました。NTTの記事ですが、この頃1995年、Windows95が出てインターネットの普及が語られ始めた頃、NTTもかなり哲学的な試みをしていたようです、私はWindows3.1からインターネットに入っていましたが、このイベントの記憶はありません。いえ、NTTさんのせいだとは言いませんが、2400bpsで繋ぐのにも悪戦苦闘の時代です(^o^)
そして、メディアの社会(学)的な考察として、「逆パノプティコンとしてのテレビ」のような記事を読むことができるのもインターネットのお蔭ですが、
ここに 「視聴者にとってテレビの映像は、見られることなく見ることのできる他人であるから、安心して笑ったり泣いたりする。テレビは、民衆を笑う側に立たせることによって、優越者としての疑似的満足感を与えることができる」
などと描いているのを読むと、タイトルの逆パノプティコンになんとなく納得します。
話があちこちするのですが、Opticon ~Audio Visual Performanceというページは「アート・文化」のカテゴリーになります。2004年11月17日の夜にVSMM国際会議の関連イベントとしてソフトピア・ジャパン(岐阜県大垣市)にて上演されたものだそうです。
このようなメディア論、映像表現などが panopticon という概念の延長として既に出ている訳です。しかし、黒川さんが述べたような第3世代の教室という概念とアメリカ同時多発テロ事件後の監視(ネット社会の未来を問題を考える >> 第2回特別講演会(2002.7) )で講演されているような事柄と、インターネット、ネットワーク社会について、私は自分の仕事の性質から一番の関心を持っています。
この講演テキストでは、「ビッグ・ブラザー」、「パノプティコン」、「アセンブラージュ」という3つのモデルについて述べられています。我々がネットワーク、ポストモダン(黒川さん)の時代にいるのだからパノプティコンからは解放されていると考えるのですが、実はかつては監視塔にいた人々も今は我々(囚人側、というのは比喩)と同じ平面にいて、別なネットワークを組んでいる(アセンブラージュ・モデル)、人々には監視塔が目に入らなくなっているに過ぎない時代にいるのではないか、という所に到達する訳です。
地デジ推進というのは、まさに上にあるように逆パノプティコンとして市民に優越感を与えることが、アセンブラージュ・モデルの監視ネットワーク側にいる人々の隠された意図としてあるのではないか、そこまで疑ってみることは必要ではないか。
かつて大宅荘一が「一億総白痴化」と言ったことが、デジタル社会の中では推進している当人すらもそれと気付かないレベルに達している、デジタル化して双方向通信可能なテレビ、あれもできます、これもできますというだけに終わりそうな気もするのが、私のとっての地デジ化です。限られた資源としての電波の有効利用という点はもちろん大切なのですが、この方法しか無かったのか、それは私にはわかりません。しかし、既に事は運んでいるのですから、せめて自分にデジタル化したテレビが必要かということだけは考えています。デジタルをD-A変換(これまで通りの信号に変換)してケーブルに流してくれれば、私の古いテレビでも見えるのですけどね(^o^)、どこかそういうサービスをやってくれないかな。
私はひとつ前の記事で甲府市の情報ハイウェイの事を書きました。「つどうわ」で公演される演劇が、監獄からの脱出というテーマでパノプティコンをどのように抽象化しているのか、もし時間があれば観客のひとりになってみたいと思います。
公的関与の情報ハイウェイ、地デジについて論じる時に、どこまでメディア論としても社会学的にも深みのある考察ができるか、それは光回線キロあたり幾らかかるという議論の前にしておかねばならないことかも知れません。しかし、そういう議論が政府、自治体、議会の中で論じられているのを、寡聞にして私は知りません。だから私はこんなブログ記事を書き、ホームページを書きます。