「慰霊の日」~“祈りに包まれる1日”を伝える~(NHK)
【この記事を読んでいて気付きました・・・】
ことしの「沖縄全戦没者追悼式」の中継予定です。
テレビ 午前11:40~午前11:54 (総合・九州沖縄地方)
午前11:54~午後00:15 (総合サブ・沖縄県域)
午後00:15~午後00:45 (総合・全国)
ラジオ 午前11:50~午後00:15 (ラジオ第1・沖縄県域)
午後00:15~午後01:00 (ラジオ第1・全国)
NHK放送文化研究所が2022年に行った意識調査の結果では、
6月23日が「慰霊の日」であることを知っていたという割合は、沖縄の92%に対し全国では27%にとどまりました。
この機会に、沖縄で戦争があった歴史について関心を持っていただけるよう、放送をお届けしたいと思っています。
NHKでもう一つの放送があります。
沖縄戦79年 〜平和を見つめ直す〜この番組について 日米両軍による激しい地上戦に巻き込まれ、沖縄県民の4人に1人が命を落とした沖縄戦から79年となる「慰霊の日」。この日、県内は平和への祈りに包まれる。戦争を体験した県民の割合はすでに全体の1割を下回っているとみられ、ここ数年は平和の尊さを訴えてきた体験者たちも相次いで亡くなっている。体験者が持ち続けてきた平和への願いと向き合い、次の世代が沖縄戦の記憶をどう継承していくか。特集や解説をまじえて考える。
放送 総合 6月23日(日)午後6:05~6:45(九州地方)
総合 6月23日(日)午後6:05~7:00(沖縄県地方)
沖縄全戦没者追悼式の中継とは内容が異なる放送と思えます。
上記のNHK記事には『九州・沖縄のみなさんに向けては、夕方6:05からは、沖縄県内が祈りに包まれた「慰霊の日」のもようを特集番組でお伝えします。』 とのメッセージが書かれています。
毎日新聞(特集)
特集 沖縄戦 「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦から78年。約3カ月に及んだ地上戦は住民を巻き込み、日米合わせて計約20万人が犠牲となった。
2024年6月21日
「軍神」になった大先輩 同調圧力呼んだ地上戦前夜の顕彰運動(毎日新聞)
「感状上聞(じょうぶん)に達す 大舛中尉 ガ島の陣頭に白刃」
第二次世界大戦中の1943年10月8日、毎日新聞が1面トップで報じた。この年の1月に南太平洋のガダルカナル島で米軍との激しい戦闘の末に戦死した大舛 松市(おおます まついち)中尉(死後、大尉に昇進)の武勲が天皇に報告(上聞)されたという陸軍省の発表を伝える記事。顔写真とともに経歴が記され、「中学時代は一年から一番で押し通した秀才であった」とある。
【この記事は有料記事です。沖縄県の大舛松市大尉は著名な方で多数の記事がありましたので別記事で掲載したいと考えております。】
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2024年6月23日「沖縄慰霊の日」に(沖縄県) 沖縄戦から79年 命を落とした生徒たちを追悼(NHK)沖縄県庁サイト
令和6年沖縄全戦没者追悼式の開催 式典名称 令和6年沖縄全戦没者追悼
実施日時 令和6年6月23日(日曜日)「慰霊の日」午前11時50分から午後0時40分
実施場所 平和祈念公園(沖縄県糸満市摩文仁)
以下略します。関連行事など多数の記事が掲載されています。
2024年6月19日
沖縄 慰霊の日前に 平和の礎に181人の名前刻まれた刻銘板設置(NHK)
今月23日の、太平洋戦争末期の沖縄戦から79年となる「慰霊の日」を前に、沖縄県糸満市の平和祈念公園ではこの1年で新たに申告があった戦没者181人の名前が刻まれた刻銘板が新たに設置されました。
沖縄戦最後の激戦地、糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎(いしじ)」には、沖縄戦などで犠牲になった24万人を超える人たちの名前が刻まれています。
沖縄県は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」と定めていて、これを前に19日、この1年で新たに申告があった戦没者181人の名前が刻まれた刻銘板を設置する作業が行われました。 県によりますと、追加された人たちの内訳は、県出身者が24人、県外出身者が157人となっています。
県外出身者の中には、沖縄へ向かう途中でアメリカ軍に撃沈された旧日本軍の戦艦大和や軍に徴用された船の乗組員などが含まれているということです。
19日追加された刻銘板は3枚で、「平和の礎」に名前が刻まれた人は合わせて24万2225人となりました。
県平和・地域外交推進課の和仁屋浩次さんは「大雨で工事の日程が大幅に遅れたが、慰霊の日を前に無事に設置できたことをうれしく思う。県としてこの刻銘の取り組みを通じて平和を希求する沖縄の心を県内外に発信していきたい」と話していました。
2024年06月18日
沖縄戦の体験を語り続ける94歳 突き動かす言葉 (翁長安子さん)(NHK沖縄放送局)
多くの学生が戦場に駆り出され命を落とした沖縄戦。県立第一高等女学校に通っていた94歳の女性は、学友の多くが「ひめゆり学徒隊」に動員され、自身は別の日本軍の部隊と行動を共にし生き延びました。長年、みずからの体験を語り続けてきた女性を突き動かしているのは、戦場で投げかけられた、ある「ことば」だといいます。
記事担当・NHK沖縄放送局記者 堀井香菜子
「これからも続けて行かれますか」という質問に対し「生きている間は頑張ろうと思っています」と答えてくれた翁長さん。インタビューの終わりに、次のように話していました。
『やっぱり自分の実体験を話すことによって、戦争の恐ろしさ、命の大切さ、自分が体験したことを通して命がどんなに大事かということを体験しているので。それを、平和でなければ命は守れないんだということを語り継いでいこうと。だから全てのものに、私は「生きよ」という隊長の言葉を、一生涯自分の生きる糧にしてます。』
取材後記
翁長さんは、休みも取らず、長い時には4時間ほど講話を続けます。一方、講話した日の夜はなかなか寝つけないということです。次の世代に沖縄戦を伝えることに全身全霊を傾けて取り組んでいるのだと感じています。
私は去年の春に沖縄に赴任し、体験者から細かい内容を聞いたのは翁長さんが初めてです。壮絶な体験を聞いた時、ショックでどう受け止めていいかわからなくなるほどでした。
翁長さんに取材を重ねる中で戦争がいかに愚かで平和がどれだけ尊いのか、そして、そのことを理解するためには戦場で何があったのか知ることが欠かせないと改めて考えさせられました。今後も取材を続け体験者のことばを伝えていきたいと思っています。
2024年04月11日
沖縄戦79年 少年だったわたしのおじさんが語る家族の死 (NHK沖縄放送局)
79年前の沖縄戦で、沖縄本島中部の読谷村では2947人の住民が亡くなりました。わたしの父親は読谷村出身。亡くなった人の中には親戚も含まれています。今回、両親と妹を失ったおじさんが、初めてみずからの体験を語ってくれました。
「自分ももう年だし、今のうちに知っていることをあんたに話しておこうと思ってね。」
そう話し始めたのはわたしのおじさん、読谷村に住む宮城儀昌さん(87)です。父親のいとこで、正確には“いとこおじ”ですが、昔から親しみを込めて“おじさん”と呼んでいます。
おじさんは沖縄戦で、旧日本軍に召集された父親の信貞さんと、母親のフサさん、それに妹のトモ子さんを亡くしました。これまで妻以外に話すことがなかったという家族の最期を語ってくれました。
記事担当・NHK沖縄放送局 宮城杏里キャスター
おじさんの沖縄戦 (最後のメッセージだけ掲載します)
『今でも世界で行われている戦争のニュースで小さな子どもが犠牲になっている映像を見ると、自分と重ねてしまいテレビを消してしまう。若い人たちには同じ思いをさせたくない。二度と戦争はやってほしくないと、それを自分は祈っています。』
取材後記
おじさんの話を聞きながら沸き上がってきたのは「戦争が憎い」という感情でした。わたしはこれまで、悲しいことやつらいことを思い出させてしまうのではないかと考えて、特に自分の身近な人から沖縄戦の体験を聞くことにちゅうちょしていました。ただ、79年が経ついま、もっと体験者のことばを聞き、記録していかなければならないと考えています。
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