激戦も大詰めを迎えました。信長側の記録である『信長公記』を読んでおきます。
神吉城落城(『信長公記』より)
・・・7月15日夜、淹川一益・丹羽長秀両軍の攻め口から神吉城東の丸へ突入し、16日には中の丸へ攻め込みました。
(信長軍は)敵将、神吉則実を討ち取り、天守に火をかけました。
敵味方入り乱れて火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、敵(神吉)方の将兵過半数が焼死しました。
西の丸は荒木村重が攻めました。ここには、城主の叔父の神吉藤大夫が立て寵もっていました。
藤大夫が降参の申し入れをしてきたので、佐久間信盛・荒木村重の二人が斡旋し、信長はこれを聞き届けた。藤大夫は赦免され、隣の志方の城へ退去しました。・・・
城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城したと記しています。
神吉城落城は、頼定の叔父神吉藤大夫のうらぎりか?
『信長公記』は、以上のように「神吉の落城は、城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して落城し、頼定はその場で切られた」と記しています。
広く知られているこの神吉城は叔父・藤大夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は、史実ではないとしています。
地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいます。
敗因も神吉城主・頼定を『信長公記』にあるように、藤大夫一人を悪者にしています。
「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれません。
負け戦の後には決まって、制裁がまっています。
信長の関係した戦の場合は、磔等の極刑がしばしばありました。神吉城の戦いではそれがありません。
神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いでした。
三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのかもしれません。(no4909)
*写真:常楽寺(神吉城跡)にある神吉頼定の墓
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