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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(199) 戦国時代(15) 神吉城の戦い(5)・神吉城落城

2020-03-19 07:50:03 | 大河・かこがわ

 激戦も大詰めを迎えました。信長側の記録である『信長公記』を読んでおきます。

     神吉城落城(『信長公記』より)

 ・・・7月15日夜、淹川一益・丹羽長秀両軍の攻め口から神吉城東の丸へ突入し、16日には中の丸へ攻め込みました。

 (信長軍は)敵将、神吉則実を討ち取り、天守に火をかけました。

 敵味方入り乱れて火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、敵(神吉)方の将兵過半数が焼死しました。

 西の丸は荒木村重が攻めました。ここには、城主の叔父の神吉藤大夫が立て寵もっていました。

 藤大夫が降参の申し入れをしてきたので、佐久間信盛・荒木村重の二人が斡旋し、信長はこれを聞き届けた。藤大夫は赦免され、隣の志方の城へ退去しました。・・・

 城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城したと記しています。

  神吉城落城は、頼定の叔父神吉藤大夫のうらぎりか?

 『信長公記』は、以上のように「神吉の落城は、城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して落城し、頼定はその場で切られた」と記しています。

 広く知られているこの神吉城は叔父・藤大夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は、史実ではないとしています。

 地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいます。

 敗因も神吉城主・頼定を『信長公記』にあるように、藤大夫一人を悪者にしています。

 「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれません。

 負け戦の後には決まって、制裁がまっています。

 信長の関係した戦の場合は、磔等の極刑がしばしばありました。神吉城の戦いではそれがありません。

 神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いでした。

 三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのかもしれません。(no4909)

 *写真:常楽寺(神吉城跡)にある神吉頼定の墓

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