加古川城主・糟谷武則
加古川近辺の城主は、三木城の別所氏の支配下にありました。
「加古川城主・糟谷武則だけは、信長・秀吉の味方でした」といわれています。が、詳細を見ておきましょう。
糟谷武則の母は、御着城主・小寺政職(まさもと)の妹で、八代加古川城主・糟谷朝貞(ともさだ)へ嫁ぎ、ふたりの子供(糟谷朝正とその妹)を産んだのですが、故あって離婚し、志村某と再婚し、武則をもうけました。
武則は、異父の兄と姉が加古川城におり、兄の糟谷朝正は九代加古川城主になり、姉は、三木城・別所氏に嫁いでいます。
母の再婚相手が早く亡くなったため、母は6才の武則の養育を前の嫁ぎ先の糟谷家(加古川城)に托して、ふたたび再婚しました。
武則は、異父兄の糟谷朝正と共に育てられて成長しました。
朝正は、武則を養弟として糟谷姓を名のらせ、後に朝正はその子(友員:ともかず)と共に武則を伴って三木城に入りました。
天正五年(1577)、友員11才、武則15才のことでした。
もと、糟谷(加古川城主)も三木方
天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多くの城と同じく別所方でした。
官兵衛は、三木城の武将の後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼しました。
「武則様は、ぜひ加古川城へお帰りください。こん後、はからずも三木方と秀吉方は、お互いに敵として戦うことになり、不幸にして三木城が破れますと、別所家はもちろんですが、糟谷家も断絶いたします。
糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へ帰ってください」「ここはまげて、糟谷家存続のために、武則様は、まげて加古川城へお帰りください・・・」と。
兄は、三木に味方し糟谷武則は、加古川城にもどり、秀吉側として行動をとるようになったのです。
このような事情で、加古川地方の城主は、ほとんど毛利方につきますが、加古川城だけは信長・秀吉側についたことを確認しておいてください。(no4898)