文楽の復活
三宅周太郎の功績は、演劇評論家として、歌舞伎の興隆、文楽の再興に貢献したことでした。
中でも、この文楽の研究こそ、前人未踏に近い処女地で、三宅周太郎は最初の人でした。
「中央公論」に発表された「文楽物語」は関係方面に静かなるブームを呼びました。
間もなく「時事新報」の学芸欄で、作家の広津和郎がこれを激賞する文を書います。
続いて文芸評論家の正宗白鳥が、そして文芸評論家の谷川徴三・佐藤春夫も高く評価しました。
周太郎は、将来への目標も希望も見失って、混迷の道にさ迷い、絶望と苦悩の中から脱出すべく、全力を尽して賭けた仕事が多くの人達から温い厚意をもって評価されたことは、今後の仕事の自信を深めることができたのでした。
「中央公論社」は、続連載を懇請してきました。
周太郎は、引き続きその研究を深め、文楽ものを書き続けました。
そして、昭和3年の3月、大阪の文楽一座は東京の明治座へ、大挙上京して大公演をうちました。
公演は圧倒的な大入の連続で大成功をおさめました。
文楽の人気を盛り上げたのは「中央公論社」 「東京日日新聞社」 「新潮社」そして、周太郎の所属する文士集団「三田派」及び劇作家の里見滓の一派、さらに義太夫の大のファンでした。
それに、財界一方の旗頭である渋沢家の人達が、一体となって協力しました。
もちろん、これらすべての引き金となったのは、三宅周太郎の「文楽物語」であることは、衆目の一致するところでした。
そして、この東京公演は文楽一座にとっては、まさに起死回生の快挙となり、周太郎は、一座の人達から救世主のように感謝されたのでした。
そして、淡路こそ、人形浄瑠璃の発祥の地である事を突きとめた周太郎は、多忙な中、淡路島を訪れています。昭和4年5月19日のことでした。(no4610)
*写真:『文楽の研究(三宅周太郎著)』(岩波文庫)、「文楽物語」はこの本に詳しい
◇きのう(1/18)の散歩(10.406歩)