豊沢団平(3)
団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人
周太郎の「団平」調査は続きました。
団平を預けられた千賀太夫は、幼少の力松を旅芸人の三味線弾きにする程度の考えで、当時の三味線の名人三代目豊沢広助の門に入れました。
つまり、親は資産をなくし、なまじ浄瑠璃の為に一生を犠牲にした結果、子を三味線弾きにしたものの、その至難さを身に沁みて知る故に、せめて「旅稼ぎ」でも出来ればと思う程度でした。
この消極的に、三代目広助の門へ入れられた力松が、親が全く期待もしないのに、後年の名人団平に成長したのです。
しかも、広助の眼は高いものがありました。
幼少の力松をただ者でないと見て取り、「旅稼ぎ」などは、もっての外とばかりに、直ちに力松を本場の文楽へ入れて修業せしめたのです。力松12・13の頃と思われます。
18才にして才能を現し、早くも数人の門人さえ持ち、28才の若さで当時の最高権威竹本長門太夫の三味線を弾くまでに進歩したのでした。
三宅周太郎のこと
三宅周太郎は、戦後ずっと京都市内桂野に定住し、劇評一筋の道に精進しましたが、すでにこの界の権威としての不動の地位を確立しました。
そして、かつての母校・同志社普通部の旧知の人達からの懇請によって、ある日母校での講演会に出席しました。
それは多感な青春の日を想い浮かべ、ひとしお感興にひたりつつ、その演題は「文楽について」として、文楽の前途を憂いつ、多年にわたる独自の研鑚を傾けたもので、列席の人達に多くの感銘を与えました。
また、昭和35年7月、加古川市市制十周年記念祝典には、かつて父祖の所有地であった寺家町の旧公民館で、郷土の人達を前にしての特別記念講演にも「豊沢団平について」と題しての文楽ものでした。
加古川市が生んだ不世出の名人芸の真髄を披れきしたものだったのです。(no4613)
*写真:三宅周太朗(京都南座を背に・昭和39年2月26日撮影)
◇きのう(1/21)の散歩 (10.256歩)
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