文芸春秋社を退社
第二次「演劇新潮」は、努力の甲斐もなく挫折してしまいました。
その頃の(菊池)寛は、東京朝日と大阪朝日の朝刊に初めて「第二の接吻」を連載し、大正15年1月からは、講談社の新刊娯楽雑誌「キング」に長編小説「赤い白鳥」を書き出し、流行作家として人気の頂点でした。
また、文土の社会的、経済的地位の向上をめざして、文芸家協会を設立し、初代の会長におさまり、自らも最高価の原稿料を各社に要求したといわれ、文春社の社長も兼ねて莫大な収入がありました。
そして、取巻きに近いような若い作家達の面倒をよく見て、気前よく金を散じる豪著な生活に明け暮れていました。
社長がこのような生活態度であったから、社と深い関係にある川端康成、横光利一、佐々木茂策、斉藤龍太郎、西村晋一といった新進作家連も派手な遊びで、これらの人達と談笑する機会も多くなると同時に、酒は少しもいけない周太郎でしたが、この人達との付合いで高級料亭で豪遊することもしばしばとなりました。
このような生活に馴染んだ周太郎は、収入をはるかに越えた華美な生活によって、またたく間に相当な借金が出来てしま.いました。
ある時、某所への60円(現在に換算して約30万円)の支払いの約束が重くのしかかってきました。
寛に「六十円の金が是非入用なのだが…」と、周太郎は口走ると、「君、これをやるよ。君には世話になったこともあったな」というなり、周太郎の手に60円をポンとにぎらせたのです。
律義な周太郎が他人から金を借りたのは、後にも先にもこれが一回きりでした。
「演劇新潮」は廃刊になったが、寛は「ずっと文春社に残ってやってくれないか」といったが、周太郎はその責任は一切明確にすべきだとの信念から、それを断ちきって、文春社を退社しました。昭和2年8月の終りでした。
周太郎は自由な身になった反面、文春退社によって収入は激減しました。周太郎は幸いにも「東日」だけはつながっていましたが、『もう一度正社員に戻してくれ』とは東日へいえるものではありません。
文楽の研究に光を見つける
三宅周太郎が、昭和のはじめ頃の物心両面の八方ふさがりの生活の中から、脱出すべく換悩のうちに光として捕え得たものは、かねてより深い関心をいだきながらも、模索状態にあった大阪の文楽ものの研究に賭けることでした。(no4608)
*写真:文楽(人形浄瑠璃)
◇きのう(1/16)の散歩(11.167歩)
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