三宅家は、寺家町の資産家に・・・
時代は明治に移ります。
農民の税金は下がりません。苦しい生活が続きました。その上に、開国により安い綿が輸入されるようになり、ほとんどの農民の生活はガタガタになりました。
土地の売買が自由になりました。加古川近郷においても田畑の売買が、盛んに行われました。
この時期に三宅利平は、田畑の買いの手に廻ったにちがいありません。
祖父・利兵衛の代から酒造業としてこつこつ蓄えた財力がそれを可能にしたのでしょう。
三宅家所有の田地毎年増加は急増しました。
寺家町周辺の宅地には、酒倉が次々と新築されていきました。
明治20年頃には新興の資産家として三宅家は加古川近在に不動の地位を築きあげたのでした。
周太郎、6才の時母を亡くす
多くの使用人を置いた資産家に生れた周太郎は、お坊ちゃんとして育てられだと想像されますが、実はそうではなかったのです。
それは浪費をきらった質素な三宅家の家風もさることながら、三宅家の家族構成にもありました。
周太郎の上には母の異なった姉が5人もいました。
長姉は「りつ」で、この娘の母は、他の妹達四人とまた異なっていました。
次女は「しやう」、三女「じゆう」、四女「ひさ」で五女は「まさ」でした。
そして、次女・三女・四女・五女を生んだ利平の妻は、明治24年3月19日日に亡くなります。
そのすぐ後へ周太郎の母「ヨリ」が利平に嫁し、翌25年に周太朗が生まれています。
その時、周太朗の母「ヨリ」は32才で、父利平は59才で親子程の年の違った夫婦でした。
そして、周太朗の母は幼い周太郎を残し、結婚生活僅か七年足らずで、明治39年9月17日に亡くなります。
行年37才、周太郎数えの6才でした。
周太郎は、その著書『観劇半世紀』の中で「六つの時に母は病死、乳母もなかった私は、もう六つの時に寂しさを知っていた・・・」と述懐しています。
幼い周太郎の脳裡には、病んで伏せっている母の姿が、強く印象に刻みこまれていたようです。
母の死後、周太郎は心優しい多くの異母姉たちに囲まれて、「周さん、周さん」と可愛がられて育ちました。
この間に非常に感受性の豊かな繊細な感覚がはぐくまれたのでしょう。
後年周太郎が、感情のゆれ動く演劇舞台を凝視し続け、その論評一筋の道にひたむきに精進する素養が、この年少の頃すでに培われたのでしょう。
そして、いよいよ周太郎の将来を決定づけるある事件が、この町におこりました。(no4583)
*写真:16歳の時の周太郎(右の女性は一番下の姉・まさ20才、中央は甥・虎雄6才)
◇きのう(11/17)の散歩(15.147歩)
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