ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

三宅周太郎さんのこと(2) 激動の時代に生きた祖父・利兵衛、父・利平

2018-12-17 08:50:08 | 三宅周太郎さんのこと

   激動の時代に生きた祖父・利兵衛、父・利平

 周太郎は、明治25年寺家町の資産家三宅利平の末子として生れました。

 三宅家は酒造業を営んでおり、周太郎が生れた前後20間が、町の資産家としては全盛期のようでした。

 その所有田地は、溝ノロ・河原・中津・大野・野口村の坂元と印南郡古新村まで及び、20余町歩に達したといいます。

 これらの田地からあがってくる年貢米は、三つの酒倉に運び込まれては銘酒となって樽詰めにして売り出されました。

 このような資産家は、決して短期間にこつぜんと出現するものではありません。

 三宅家は寺家町の古い素封家か旧家かと思われがちですが、以外にも利平の父利兵衛の代に加西郡から転入しています。

 利兵衛が亡くなったのは慶応3年10月29年日、行年69才ですから、加古川ア転入は、それよりも30余年以前の年号では天保初年頃と思われます。

 寺家町はその頃、町場で高砂港にも近く播州平野の重要な宿場町でした。

 山あいの加西郡の村からみれば、将来有望な土地だとの展望に立っての転入であったと考えらます。

 相當な資産を持って郷里を出て来たようです。

 

 三宅家の墓は、三宅家の近くの常住寺境内にありました。

 常住寺は現在、現在加古川市中央消防署の近くに移転していますが、昭和22・3年頃までは今のニッケパークタウンの東の駐車場あたりにあり、広大な境内と墓地をもっていました。

 享保年間の加古川絵図に常住寺の樹令数百年もする名勝「鹿児の松」の出張った枝が、本堂の大屋根にとどかんばかりの偉容で描かれています。

 三宅家一門の墓はすべてこの境内にありました。

 それにしても、わずか一代か二代の間によそ者の三宅家が、どうしてそんな大資産家になることができたのでしょう。

 それはその時代の背景を見逃すわけにはいかないようです。

 時代は、江戸時代から明治へと大きく動きました。

 利兵衛・利平父子の生きた時代は、まさに激動の時代でした。(no4582)

 *写真:周太朗の父・利平(『三宅周太郎』・森井信夫著より)

 ◇きのう(12/16)の散歩(11.458歩)

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