「ひろかずのブログ」今日、4500号!
志方城の戦い(2)・志方城の戦いはあった
戦力だけでは判断できない要素もあります。
「志方城(右図:木内内則作)の戦いは、確かにあった」と考えます。
その理由として、播磨地域の情勢をみておきます。
播磨は、浄土宗・浄土真宗の影響が強い地域です。
信徒は「主君と自分とは現世だけの契りであるが阿弥如来との契りは未来永劫の契りである。主君よりも信仰の方が大切である」と考えます。
もし、戦わずして信長方に敗北を認めるとなると、家臣・領民の支持を一挙に失いかねません。
石山本願寺は、信長軍と壮烈な戦いをしています。志方地域からも多くの者が本願寺の支援に出ています。
信長は、まさに仏敵であり悪魔でした。また、志方城から家臣たちも三木城を支援しており、三木城にも多く籠城しています。
最初から戦わず信長側につく雰囲気にはありません。
官兵衛からの働きかけが
一方、志方城の場合、娘(光)の夫・官兵衛から「信長方に味方をするように」との説得があったのは確実です。
志方城の敗戦が目の前に、迫った段階で、城兵としても、敗者としてすべてを失い世に漂って生きるより、武士にとって最大の価値観である「家の存続」を選択したのかもしれません。
『志方町誌』から志方城の戦いを見ておきます。
まず、官兵衛とその妻の働きかけと、城内では赤痢が蔓延しています。何やら戦闘らしくありません。
「志方城も、よく戦ったが、病魔にかてなかった」とでも言いたげです。何やら裏がありそうです。
志方城主・櫛橋政伊は、命をゆるされました。そして、後に官兵衛はこの一族を家臣団に組み入れ、厚く遇しています。(no4500)
*絵:志方城の図(木内内則作)
◇きのう(6/25)の散歩(11.545歩)
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