鳥町の戦いで、手痛い敗北をきした秀吉は、先に三木城を取り巻く支城を潰し、三木城を孤立させる作戦に変更しました。
が、その前に2,3とり上げねばならないことがあります。その一つが、野口戦の前にあった別府城(べふじょう)の戦いです。
毛利方としても、三木方を支援し、その威力を示しておくことが必要でした。
別府城の戦い
天正六年(1578)四月一日、毛利軍が三木方の支援のために別府城(現:加古川市別府町)に押し寄せてきました。
官兵衛は、毛利軍を海に押し返しました。
それに対する信長からの感謝状が残っています。
この文書は、「別府城は、信長側に味方した三木城の二番家老、別所重棟が守っていたが、毛利方が雑賀衆(さいがしゅう)の応援を得て別府城に攻め寄せてきた。官兵衛の指揮により毛利方を撃退した。よくやった」という内容です。
毛利・雑賀連合軍で来襲
別府(べふ)に、小さな城がありました。この別府城のあった場所は、候補地は4カ所ほどあるのですが、確定していません。
この時期、三木別所氏で織田方についている別所重棟が、ここを守備していました。
雑賀党が大坂の湾から、毛利軍は、はるか西の広島あたりからの出撃でした。
それらが、淡路の岩屋で結集し、多数の軍船をそろえて、別府の浜に来襲してきました。秀吉は、重棟では心もとなく、(黒田)官兵衛に指揮を任せました。
官兵衛勝利す
詳しいことはわかりません。以下は、想像です。
・・・夜は、しらじらと明けはじめました。海浜に毛利・雑賀の兵が上陸して来ました。人数は二千ぐらいと推定できました。
官兵衛は、敵方をできるだけ別府城に近付けて一気に仕掛ける策をとりました。
敵方が土塁や石垣に取りついたとき、官兵衛は、城門をひらき、三百人の突撃隊を突出させました。・・・ 毛利方は、たまらなく去ってゆきました。(no3488)
◇きのう(2/13)の散歩(13.295歩)
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