加古川城(1)、城主・糟谷武則
糟谷武則は、加古川城主・朝貞が妻と離別した後、その妻が志村某と再婚しできた子供です。
そして、志村某が早く亡くなり武則が6才になったとき糟谷家に托して、また再婚したため朝正(城主)は自分の養弟として育て糟谷の姓を名のらせました。
妻との離別には何らかの事情があったのでしょう。
もと、糟谷(加古川城主)も三木方
少し復習です。
天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多くの城と同じく別所方でした。
官兵衛は、三木城の武将の後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は、加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼しました。
「不幸にして三木城が破れると、別所家はもちろん、糟谷家も断絶いたします。糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へ帰って ください・・・」と。
以後、兄・朝正は、三木に味方し、糟谷武則は、加古川城にもどり、秀吉側として行動をともにしました。
加古川地方の城主は、ほとんど毛利方についたのですが、加古川城だけは信長・秀吉側につきました。
後に、糟谷武則は柴田勝頼との賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いでは「賎ケ岳七本槍」の一人として大活躍をしました。
しかし、関ヶ原の戦いで、西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しまのです。
そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。(no4501)
*地図:加古川城の場所(現在、称名寺が加古川城跡だといわれている)
◇きのうの散歩(10.383歩)
〈お願い〉
「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b
時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。