ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(218) 官兵衛が駆ける(34)、加古川城(1)城主・糟谷武則

2018-06-27 06:15:57 | お爺さんが語る郷土の歴史

   加古川城(1)、城主・糟谷武則

  糟谷武則は、加古川城主・朝貞が妻と離別した後、その妻が志村某と再婚しできた子供です。

 そして、志村某が早く亡くなり武則が6才になったとき糟谷家に托して、また再婚したため朝正(城主)は自分の養弟として育て糟谷の姓を名のらせました。

 妻との離別には何らかの事情があったのでしょう。

   もと、糟谷(加古川城主)も三木方

 少し復習です。

 天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多くの城と同じく別所方でした。

 官兵衛は、三木城の武将の後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は、加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼しました。

 「不幸にして三木城が破れると、別所家はもちろん、糟谷家も断絶いたします。糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へ帰って ください・・・」と。

 以後、兄・朝正は、三木に味方し、糟谷武則は、加古川城にもどり、秀吉側として行動をともにしました。

 加古川地方の城主は、ほとんど毛利方についたのですが、加古川城だけは信長・秀吉側につきました。

 後に、糟谷武則は柴田勝頼との賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いでは「賎ケ岳七本槍」の一人として大活躍をしました。

 しかし、関ヶ原の戦いで、西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しまのです。

 そのため、七本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。(no4501)

 *地図:加古川城の場所(現在、称名寺が加古川城跡だといわれている)

 ◇きのうの散歩(10.383歩)

  〈お願い〉

 「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

  時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする