加古川評定(2)
別所長治(三木城主)・小寺政職(御着城主)参加せず
天正6年(1578)2月23日、秀吉は、評定のために 7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)に向かいました。
この加古川評定は、毛利攻めの方策を論じる軍評定のはずでした。
別所は、長治の名代として、叔父の賀相と三番家老の三宅治忠、を評定へ送り込みます。
その他、東播磨の主だった城主、神吉城(神吉頼定)、野口城(長井政重)、英賀城(三木通秋)、石守城(中村重房)、瑞谷城(衣笠範景)、魚住城(魚住頼治)・阿形城(油井勝利)、高砂城(梶原景行)、志方城の輝橋伊定、淡河城(淡河定範)らは、加古川評定に加わりました。
しかし、播州の二大勢力の当主・三木城主(別所長治)、御着城主(小寺政職)の姿はありませんでした。
三木・別所氏が信長方に味方すれば、他の領主もそれに倣ったかもしれません。
しかし、三木城は、この加古川評定前に、毛利氏への加担を決めていたようです。
会場からの実況(『播磨灘物語』から)
(『播磨灘物語』(司馬遼太郎)より)
・・・重棟(三木城二番家老)は、兄の賀相(三木城筆頭家老)とは違い、早くから(織田)信長に接近し、今度の「加古川評定」においても、秀吉のそばにあって、その支度方(したくがた)をつとめている。
ほとんど秀吉の家来のようであるといってよい。 ・・・(略)・・・「あの馬鹿が」と賀相(よしすけ)は重棟のことをいう。
織田の天下になれば、当然、早くから織田に接近している重棟の方が別所家における大勢力をつくることになり、賀相の勢力は転落せざるをえない。
「たれが織田につくものか」という賀相の肚の中で黒煙りを立てて渦巻いている感情は、打算的には家中の一向宗(浄土真宗)を抱き入れておかねばならないという理由の外に、その理由を凌ぐほどの、重棟に対する感情があった。
賀相に露骨にいわせるとするならば、「自分の目の黒いうちは別所の家を織田に味方させぬぞ」ということであったであろう。・・・・(no3477)
*挿絵:三木城主・別所長治
◇きのう(5/2)の散歩(10.789歩)
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