ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(113) 鎌倉時代(4)、守護所は加古川に置かれた

2018-03-09 09:19:27 | お爺さんが語る郷土の歴史

    播磨の守護所

 一般的に、平家滅亡の後、加古川地方に関東から多くの武士の移入があり、東播磨の中世は、はじまりました。

 そして、現在の県庁といってもよい播磨の守護所が加古川に置かれたのです。

 場所は、今の「称名寺」(写真)付近であったといいます。

     守護所は加古川に置かれた

 源氏としては、できれば播磨の県庁所在地である姫路に守護所を置きたかったようです。

 しかし、古代から何かと播磨の中心は姫路でした。

 姫路は、天皇政権の役所である国衙(こくが)が置かれており、もともと都との結びつきのつよく、そのつてで京都の公家や役所と結び、自分たちの地を守ろうとしました。

 そのため、姫路周辺には平家の所領が少なく、源氏が姫路周辺で勢力を伸ばそうとして時に、姫路周辺の土豪たちは源氏に抵抗したらしいのです。

 姫路は、源氏領にできなかったようです。

 つまり、平家没官領(けいけもっかんりょう)の対象にはならなかったたのです。

 源氏は、姫路に地頭を大量に送りこめませんでした。

 守護所を固めるには膨大な守護領が必要ですから、その点で具合が悪かったのです。

 したがって、源氏は東播磨のほうに、県庁を設置せざるを得なかったというのがその主な理由でした。

 守護の財源となる広大な守護領、五箇荘(五家荘)の中心であった加古川に守護所を置いたのです。

 ともかく、播磨の政治の中心となる守護所が加古川に置かれることになりました。(no3391)

 *写真:播磨の守護所おかれた場所に建つ、現在の称名寺

 *『風は悪党の背に』(姫路独協大学地域学研究開・編)参照

 ◇きのう(3/8)の散歩(12010歩)

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