文観を追え(1) 常 楽 寺
ここにいう「常楽寺」は、日岡神社の東隣にある常楽寺(加古川町大野)のことです。
突如として文観が説明のないままに登場しました。
これから、真言律宗、西大寺、後醍醐天皇、文観等が何回となく登場します。説明をしながら話を進めますが、整理をしながらお読みください。
常楽寺の盛衰
(常楽寺は)正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残りました。
その後、小野文勧(文観)僧正(1278~1357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営されました。
末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は三百石であったといいます。
大野は洪水に見舞われやすい所
鎌倉時代です。
加古川にしっかりとした堤防を造るということは経済的にも、技術の面からいっても正嘉当時は、十分ではありません。
そのため、大野辺りは、しばしば洪水に見舞われたと思われます。特に洪水の多い場所に位置していました。
というのは、「(大野の北側を流れる)曇川は、曇ったときだけ水がある」といわれるのですが、いったん大雨の時は、曇川の大量の水は加古川に流れてくれません。
水は、堤防の外(東側)と日岡山の間を大野に向けて一気に押し寄せ、大野はしばしば洪水に見舞われました。
それにしても、正嘉二年の暴風雨の時は、特に大規模な加古川本流が引き起こした大洪水であったようです。
常楽寺は、一宇を残して流されたと伝えてられています。
常楽寺の再興
この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようです。
『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。
常楽寺には、西大寺系の石工が造った宝塔があります。
「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。
が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像されます。
再建は、それもこの塔の造立された正和四年(1315)ごろではないか、と想像してみます。当時、文観は37才でした。
まだ、後醍醐天皇との関係は薄かったのですが、すでに、西大寺の実力者として活躍しています。(no3402)
*写真:現在の常楽寺
◇きのう(3/19)の散歩(11.161歩)
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