野口念仏のはじまり
*一遍は、鎌倉時代の僧ですが、教信(寺)の話の都合で、ここに挿入させていただきます。
一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。
この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。
ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。
ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。
彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。
一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよ をどらばをどれ 春駒の のり(法)の道をば知る人ぞ知る」と詠んでいます。
以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。
何が人々をそのような激しい踊りの表現を取らせたのでしょう。
踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています。
一遍の生きた時代は、旱魃・水害の自然災害が人々を襲いました。そして、戦乱は続きました。その上に、元軍が攻めてくるという社会不安も重なりました。
人々は何かにたよろうとしました。それは神様であり仏様でした。
そんな不安な時代の中で、人々は一遍をとおして阿弥陀様の声を聞いたのです。
人々のエネルギィーが爆発しました。
時宗の衰え
鎌倉時代・室町時代、一遍の教えは踊りとともに、民衆の中に爆発的に広がりました。
野口念仏 は、一遍の亡き後も時宗の踊念仏はますます民衆に広がっていました。
教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった 34 年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7 日間の念仏踊りを行いました。
これが、野口大念仏の始まりだといわれています。
しかし、現在、一遍の「時宗」は衰退して、ほとんどその活動を見ることができません。
それは、江戸時代の檀家制度によるものです。
檀家制度は、檀家を持たず信者をつくっていた時宗にとっては大打撃でした。
それでも、野口念仏は地域のお祭りとして賑わいました。が、最近の「ねんぶったん」は、昔と比べるとずいぶん寂しくなったそうです。(no3375)
*写真:一遍上人(神奈川県立歴史博物館蔵)
◇きのう(2/14)の散歩(11.488歩)
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