ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(93) 鎌倉時代(4)、教信(寺)の話(4)・野口念仏のはじまり 

2018-02-15 08:18:23 | お爺さんが語る郷土の歴史

      野口念仏のはじまり

 *一遍は、鎌倉時代の僧ですが、教信(寺)の話の都合で、ここに挿入させていただきます。

 

 一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。

 この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。

 ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。

 ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。

 彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。

 一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよ をどらばをどれ 春駒の のり(法)の道をば知る人ぞ知る」と詠んでいます。

 以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。

 何が人々をそのような激しい踊りの表現を取らせたのでしょう。

 踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています。

 一遍の生きた時代は、旱魃・水害の自然災害が人々を襲いました。そして、戦乱は続きました。その上に、元軍が攻めてくるという社会不安も重なりました。

 人々は何かにたよろうとしました。それは神様であり仏様でした。

 そんな不安な時代の中で、人々は一遍をとおして阿弥陀様の声を聞いたのです。

 人々のエネルギィーが爆発しました。

          時宗の衰え

 鎌倉時代・室町時代、一遍の教えは踊りとともに、民衆の中に爆発的に広がりました。

 野口念仏 は、一遍の亡き後も時宗の踊念仏はますます民衆に広がっていました。

 教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった 34 年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7 日間の念仏踊りを行いました。

 これが、野口大念仏の始まりだといわれています。

 しかし、現在、一遍の「時宗」は衰退して、ほとんどその活動を見ることができません。

 それは、江戸時代の檀家制度によるものです。

 檀家制度は、檀家を持たず信者をつくっていた時宗にとっては大打撃でした。

 それでも、野口念仏は地域のお祭りとして賑わいました。が、最近の「ねんぶったん」は、昔と比べるとずいぶん寂しくなったそうです。(no3375)

 *写真:一遍上人(神奈川県立歴史博物館蔵)

 ◇きのう(2/14)の散歩(11.488歩)

 〈お願い〉

 *「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

  時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(92) 平安時代(3)、教信(寺)の話(3)・(伝承)上人魚(しょにんうお)

2018-02-14 08:24:29 | お爺さんが語る郷土の歴史

   (伝承)上人魚(しょにんうお)

 教信についての伝承です。

 京都に都が移ってからあまり年月がたっていない頃のことです。

 教信は、野口の「賀古の駅」(かこのうまや)の近くに庵を構え、念仏を中心に一心に修業をしていました。

 それは今までの形式を重んじるものでも、伝統的な戒律を守るだけの修業でもありません。

 生活の中に仏様の教え生かそうという修業でした。

 教信は、結婚もしました。

 たまたま、ある日教信に土地の者から川魚の差し入れがありました。

 教信は、感謝してこれをよばれました。

 すると今までも破戒僧としてにがにがしく思っていた人々が、これを聞いてがまんできなくなり、「僧が結婚をしたり、生魚を貪べたりすることは、仏道修業をする者のすべからざる行為である。けしからんことだ・・・」と教信を大声でなじるのでした。

 どの経典にも書いてあり、修業者の戒律として禁じられていることですから、その限りでは、当然責められる行為といわねばなりません。

 教信は、さげすみなじる里人をともない、駅ヶ池のたもとに行き、仏様の本当の教えと自分の考えを説きました。

 「仏道修行者は、形式的に魚を食う・食わぬということや、結婚をするとかしないということよりも、真剣に人世をどう生きるかということを自覚することの方が大切なのではないか・・・」と。

 そして、念仏を唱えながら、口をあけますと、元気な魚が池におどり出て泳ぎだしたのです。

 その後、里人がときどき池で釣り上げる魚の中に、片目だけがつぶれている魚がありました。

 村人は、「きっと教信様の歯があたった魚だろう」と「片目の魚」とか「上人魚」と名づけ、釣れても放生する風習になったといいます。(no3374)

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

 *写真:駅池(うまやがいけ)

 ◇きのう(2/13)の散歩(11.734歩)

 〈お願い〉

 *「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

 時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(91) 平安時代(2)、教信(寺)の話(2)・祈りに生きた僧・教信

2018-02-13 08:17:14 | お爺さんが語る郷土の歴史

    祈りに生きた僧・教信

 ここは奈良の興福寺です。この寺は、藤原氏の氏寺です。

 そのため、平安・奈良時代はとてつもなく勢力を持った寺でした。

 自然に興福寺の僧たちは「自分たちは他の寺の僧よりも優れている」と考えていました。

 教信もそれらの僧の中で修行をしていました。

 しかし、教信は「仏さまの教えは、僧は貧しい人々の中で生活してこそ、真の修行である」と考えるようになりました。

 教信は、そう考えるようになると、興福寺を離れることに躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。

 興福寺を離れた後、諸国を歩きました。どこでも、庶民の生活は、彼が考えていたよりも厳しい現実を知りました。

 農民たちは高い年貢に苦しみ、貧しい生活を強いられていたのです。

 やがて、教信は、印南野の西の端の野口に着きました。

 ここは賀古駅(かこのうまや)のある場所です。

 野口は海岸に近く景色の良い場所でした。真っ赤な夕日が西の海(西方浄土)に沈むように思える土地でした。

 それに、野口の人々の心はあたたかさをしりました。

 教信は、「野口は仏様の教えを実践するもっとも良い場所である」と考え、一軒の粗末な庵を建てました。

 さっそく人々に仏様の教えを説きました。

 なれない農作業も手伝いました。

 そして、時間ができると彼は一心に「ナムアミダブツ」を唱えるのでした。

 また、教信は農民に仏教を説く一方、土木事業にも力を注ぎ、水の少ない印南野台地に池を築きました。

 野口農協(加古川市野口町)の東の駅ヶ池(うまやがいけ)も大きな池に生まれ変わりました。

 現在、駅池(うまやがいけ)は宅地開発のため小さな池になっています。

 教信は、多くの人に尊敬され、彼の名は広く知られるようになりました。(no3373)

 *写真:現在の教信寺(加古川市野口町)

 ◇きのう(2/12)の散歩(11.117歩)

  〈お願い〉

 *「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

 時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(90) 平安時代(1)、教信(寺)の話(1)・教信『今昔物語集』に登場

2018-02-12 08:20:49 | お爺さんが語る郷土の歴史

それでは時代を一歩進め、平安時代の話を「教信(寺)」の話から始めましょう。

 きょうは、「教信」の説話です。

     教信『今昔物語集』に登場

『今昔物語(こんじゃくもがたり)』は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。

 「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死が登場します。

 教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんだったようです。

 それでは、『今昔物語集』に登場する教信の話を読むことにします。

    教信の死(『今昔物語集』より)

大阪の箕面市に、勝尾寺(かちおでら)があります。

 勝尾寺のお坊さんの勝如(しょうにょ)は来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。

 ある夜、誰かが訪ねて来ました。勝如は無言の行の最中でした。

 返事ができないので「ゴホン」と咳払いをしました。

 すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申すものです。私も一心に念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へお参りすることができました。

 あなた様も、来年の今月今夜(8 月15 日)に、お迎えがございます」そう言い終わると、訪問者の声はスッと消えたのです。

 ビックリした勝如は、次の朝さっそく弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりました。

すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。

 横にいる老婆に聞くと、「これは私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。

 この話を聞いた勝如は、以後念仏ばかりでなく教信のように実践にも一層はげむようになりました。

 そして、教信が告げた日(貞観9年8月15 日)に勝如は亡くなりました。

 人々は「勝如様も教信様のもとに行かれたのだろう・・・」と囁きあったということです。(no3372)

 *写真:教信上人のお顔(教信寺蔵・鎌倉時代の作)

 ◇きのう(2/11)の散歩(12.065歩) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(89) 奈良時代(19)、加古郡と印南郡の郡境

2018-02-11 07:46:21 | お爺さんが語る郷土の歴史

    加古郡と印南郡の郡境

  *加古郡と印南郡を「加印」と呼びました。

 

 地図は、「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、現在の加古川市加古川町の部分だけを拡大したものです。

 地図の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に郡境があります。

 この郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されました。

 その時、加古川は郡境に沿ったところを流れていました。

 つまり、加古川の左岸側(西側)は印南郡、右岸側(東側)は加古郡と決められました。

 ですが、なにせ加古川は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし流路を変えました。

 流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のままで、変更されませんでした。

 しかし、江戸時代になり、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との経済的な結びつきを強め、何かと不都合なことがでてきました。

 そのため、明治22年4月1日、全国的に新しい町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村が誕生しましたが、その時、加古川村・友沢・木村・稲屋村は加古郡に編入されました。

 そして、昭和4年に鳩里村(きゅうりむら)が、昭和12年に氷丘村がそれぞれ加古川村と合併し、現在の加古川町が誕生しました。(no3371)

 *図:江戸時代の郡境(八幡地区の郡境については後日、取り上げることにします)

 ◇きのう(2/10)の散歩(10.812歩)

 〈お願い〉

 *「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

 時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(88) 奈良時代(18)、万葉集歌(3)・秋萩

2018-02-10 07:39:39 | お爺さんが語る郷土の歴史

    万葉集歌(3) 秋 萩

   後(おく)れ居(い)て 我はや恋ひむ 稲見野の

        秋萩見つつ 去(い)なむ子故(ゆえ)に

                       (巻9-1772)

 この歌は、作者の安倍大夫(あべのまえつきみ)が筑紫に赴任する大神大夫(おおみわのまえつきみ)に贈った歌といわれています。

 歌中の「子」が誰をさすのかで解釈が分かれるのですが、一般的には「子は、筑紫へ下って行く大神大夫の一行の中の女性と見て、その女性との別れをつらく思う気持ちの表現が、ひいては大神大夫への惜別の歌となっている」とされています。

 (意味)

 後に残されて、私は恋しく思います。

 あなたは、稲見野の美しい秋萩を見ながら任国(筑紫)に行く人であるのに・・・

 印南川から勢いよく、枯れていた池(印南の海)に水が入れられています。

 この歌には、稲見野の萩が詠まれていますが、園内には萩の他、「おもいでぐさ」「わすれなぐさ」「やまぶき」「おみなえし」など百種をこえる季節の万葉の草花が植えられています。

 その季節に来て、花の名前を覚えるのもいいですね。

 もっとも、最近は覚えられなくなりました。それに、すぐ忘れてしまうんです。(no3370)

 *写真:万葉歌碑(万葉の森・稲美町)

 ◇きのう(2/9)の散歩(12.043歩)

  〈お願い〉

 *「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

 時々、「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(87) 奈良時代(17)、万葉集歌(2)・赤ら柏

2018-02-09 07:43:46 | お爺さんが語る郷土の歴史

   万葉集歌(2) 赤ら柏

 柏の葉は大きく、葉肉が厚いので古くは食物を盛るのに使われ、祭式用としても用いられていました。

 ことに播磨から献上される柏は有名で、宮中において祭りなどに用いられるのが慣わしになっていました。

 この歌は、そうした慣習を下敷きにして歌われています。

 

    印南野の 赤ら柏は 時はあれど

         君を我(あ)が思ふ 時はさねなし

                  (巻20-4301)

 (意味)

 印南野の赤ら柏の照りはえる時節は、決まっていますが、私の天皇を思う心は、変わることなどは決してありません。

 *さね・・・決して、ちっとも  

 この歌の「君」は孝謙天皇を指します。

 歌は、天皇を退いた聖武や光明皇太后も列席していた宴の場で歌われました。

 この時、聖武は54才、2年後には死がひかえていました。

 聖武が播磨へ行幸したのは26才の若く、溌剌としたときでした。

 聖武は、播磨が詠まれたこの歌をどんな気持ちで聞いていたのでしょう。(no3369)

 *写真:歌碑・万葉の森(稲美町)

 ◇きのう(2/8)の散歩(11.231歩)

 〈お願い〉

 *「ひろかずの日記」のURL http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

 時々、上記のURLをクリックして「ひろかずの日記」をご覧ください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(86) 奈良時代(16)、万葉集歌(1)

2018-02-08 09:02:29 | お爺さんが語る郷土の歴史

    万葉集歌(1)

 奈良時代に編纂された『古事記』『日本書紀』『風土記』を、少しですが紹介しましたが、『万葉集』に関しても見ておかねばなりません。

 中学校・高校時代の国語の授業でも思い出しましょうか。

 

 ここは天満神社の境内です。万葉歌碑(写真)があります。

 この歌碑は、昭和59年に印南野短歌会が建設したもので、「印南野半どんの会」の代表・中嶋信太郎氏(故人)の揮毫によるものです。

    家にして 吾は恋ひむな 印南野の

      浅茅が上に 照りし 月夜を

                                 (巻7-1179)

 この歌は、神亀3年(726)聖武天皇の印南野行幸の時の歌です。

印南野行幸を終え、翌朝都へ出発する折の歌でしょう。

  (意味)

 数日、印南野の仮宮に宿ったが、それにしても今夜の月は、一段と冴えて照っていることよ。

 家に帰ったら、さぞかし慕わしく思い出すだろうな・・・

 ちょっときざな英訳を載せておきます。読み飛ばしてください。

  I would think after going home of this beautiful moon

  shining over the thatches of the Inamino Plateau.

 (蛇足)

 高校時代にこの歌を暗唱しました。

 その時以来「吾は恋ひなむ」と覚えていましたが、Sさんから「恋ひむな」であることを教えていただき、『万葉の歌6(兵庫)』(保育社)で調べてみました。

 「恋ひむな」の「な」は詠嘆の終助詞との解説があります。

同じような間違いのまま覚えている方も多いのではないでしょうか。

 若い時代が思い出されます。(no3668)

 *写真:『万葉集』の文学碑(天満神社:稲美町)

 ◇きのう(2/7)の散歩(11.248歩)

〈お願いとお知らせ〉

*「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

上記の「ひろかずの日記」のURLをクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(85) 奈良時代(15)、古代の軍団の駐留地は溝ノ口

2018-02-07 07:56:34 | お爺さんが語る郷土の歴史


   古代の軍団の駐留地は溝ノ口(加古川町)?

 古代山陽道は駅ケ池の南岸から西進して加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅前あたりまでを直線で結ぶ大きな道路の痕跡が見いだされています。

 これがおよそ1300年前に設けられた古代山陽道です。

 (もっとも、先に紹介したように、加古川三角州通過する古代山陽道は川筋が安定せず、野口から北へ日岡・升田・中西・岸へのバイパスがよく利用されたようです)

 このような幅の広い直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道でした。

 賀古駅は、先に紹介したように馬数の多い日本一大きな駅でした。

 こうした駅路は平時の交通だけが目的だったのでしょうか。

 その最大の目的は、軍事であったと考えられます。

 律令制の軍事組織として諸国に軍団が置かれました。が、播磨国ではその実在がまだ立証されていません。

 歴史学者・今里幾次はその有力候補地として加古川市加古川町の溝之口遺跡を考えておられます。

 まず遺跡としては、古代山陽道の北側一キロそこそこに立地し、加古川の河口にも近く、多くの掘立柱建物が群在し、中には瓦葺きらしい例があります。

 遣物としては、硯や銅製・石製の帯金具があり、官人が駐在した官衙(かんが・中央政府の役所)的性格が推察されます。

 播磨国府系瓦に属する古大内式軒丸瓦などの出土により8世紀の後半を中心とするころに、播磨国司の傘下に置かれたことなどが想像されるのです。

 特に、「大毅」と読み取れる墨書土器が見付かっていることは重要です。

 「大毅」(だいき)は、国司のもとで軍団を統率した指揮命令官の名称です。軍毅(大毅・少毅)以下の駐留があったと考えられます。(no3867

 *『加古の流れ』(加古川市)参照

 *「大毅」との墨書のある皿

  ◇きのう(2/6)の散歩(10.741歩)

 

 〈お知らせとお願い〉

 *「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

 時々、上記の「ひろかずの日記」のURLをクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(84) 奈良時代(14)、高砂三角州

2018-02-06 08:45:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

「お爺さんが語る郷土の歴史」は、今奈良時代を書いていますが、高砂市・播磨町・稲美町が登場していません。もっぱら加古川市の紹介となっています。

 「少し、贔屓があるのではないか」と思われているかもしれません。

 播磨・稲美町のことは後に触れるとして、高砂の奈良時代の事情を述べておきます。

 歴史家の稲見悦治氏の論文「加古川三角州の非対象とその原因」の「加古川三角州の形成過程」の一部を読んでおきます。

 文体を少し変えています。

  高砂三角州

 加古川左岸(東岸)の三角州の陸化の時代は極めて早かったが、右岸(西岸)の陸化は非常に後れました。

 加古川三角洲端に当る洗川と現在の加古川本流間の中洲は、古くからナビツマ島(播磨風土記)・加古能島(万葉集)その他の地名で呼ばれ、阿閇津(播磨風土記)より海上(船)で往来しなければならない高砂三角州でした。

 *阿閇津(現在の播磨町の港)

 ある記録に「天平年間(奈良時代)まで、高砂は海中の高州にて少し漁師の住し処にて、荒井・小松原は砂浜・芦原で有し処(ところ)、池田公(輝政)の御普請にて荒井は塩浜と相なり云々」とあるように中世末期に入ってようやく加古川三角州の一部となったようです。

 こう見てくると平安時代以降の数々の和歌・平家物語・源平盛衰記をはじめ、謡曲で「高砂」とうたわれ、人々によく知られた、いわゆる「高砂」は、「尾上神社々記」に「・・・此辺一帯の総称にして当社(尾上神社)所謂高砂の尾上なり」とあるように、最初加古川左岸(東岸)の尾上附近の砂丘地帯の通称であったらしいのです。(以下略)

 奈良時代までの高砂の中心部は、人が住めるような状態ではなかったということです。

 「お爺さんの語る郷土の歴史」に高砂が登場しないのは、贔屓(ひいき)ではありません。(no3866

 *地図:加古川三角州の発達状況図(古代末期・赤線の海岸線に注目ください)

 ◇きのう(2/5)の散歩(10.756歩)

  〈お願いとお知らせ〉

 *「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

 上記の「ひろかずの日記」のURLをクリックください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(83) 奈良時代(13)、賀古駅の謎(馬数はなぜ多い)

2018-02-05 08:03:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

          賀古駅の謎(馬数はなぜ多い)

  駅制の発足当時から、二百何十年かのちの延喜式に出てくるまでに、馬数には何回かの増減があったらしいのですが、なぜ賀古の駅が日本最大の規模になったのでしょう。

 京都府教委の高橋美久二技師は、かつて明石~賀古間に一駅、賀古-草上間に一駅が置かれていた時代があったと思われることから、この二駅が廃される時、各20頭ずつの馬を二分して、両隣へ10頭ずつ分けたため、賀古は両側から10頭ずつもらって、既存の馬と合わせて40頭になり、明石と草上は片隣から十頭もらって各三十頭になったという仮説を立てておられます。

    野口は交通の要所

 神戸女学院大教授・地理学専攻の渡辺久雄氏は、その40頭の必然性を次のように推理しておられます。

 「駅のあった場所は、昔の加古川べり。加古川は古代はヒノカワと呼ばれ、川上にヒカミ(氷上)の名があるように、丹波への連絡路であり、さらに進めば、但馬や丹後へもつながります。

 加古川は、播磨の河川の中でも最大のヒンターランド(後背地)を持っているわけで、川べりの駅はたいへん交通量が多かったと思われます」と。 ・・・・

 ど素人の私も、渡辺説に支持をしたい。

 というのは、渡辺先生が指摘さているように加古川(ヒノカワ)の役割とともに、加古川の河口の港の役割も無視できません。

 野口(賀古駅)は、人や物が大いに動いた交通の要所に位置していためなのでしょう。(no3865

 *図:兵庫県立考古博物館 中村弘 提供

 *『兵庫探検(歴史風土篇』神戸新聞社参照

 ◇きのう(2/4)の散歩(14.506歩)

〈お願い〉新しいブログをはじめています。ご覧ください。

 *ひろかずの日記  http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ひろかずの日記」も、お暇なときにご覧ください

2018-02-04 09:51:31 |  ・コーヒーブレイク・余話

    「ひろかずの日記」も

       お暇なときにご覧ください

 「ひろかずのブログ」では、地域の歴史を中心に書いています。稚拙な内容ですが、毎日のアクセスは2000近くあります。昨日のアクセスは2630でした。

 これが続けるエネルギーとなっています。

 欲張りました。あらたに、なんでも書けるコーナーが欲しくなり、昨年末から「ひろかずの日記」を新たにはじめました。テーマはありません。

 時には、気分を害するような内容もあると思います。

 きょうは2日に小学校で尾上飛行場の授業をしてきたことを書きました。

 ブログを書いたのち朝刊(神戸新聞)を読むと、上谷さんが「戦時中の陸軍加古川飛行場の歴史」を語っておられました。

 偶然なので再掲します。

 なお厚かましいお願いなのですが、時間がございましたら「ひろかずの日記」も時々覗いてみてください。

 *ひろかずの日記  http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

   上谷さん、加古川学講座で戦時中の陸軍加古川飛行場の歴史を講演

  兵庫県加古川市のご当地検定「かこがわ検定」受検者を対象とした「かこがわ学講座」(神戸新聞社後援)が3日、同市平岡町新在家の加古川総合文化センターで始まった。初回は、戦史研究家の上谷昭夫さん(79)=高砂市曽根町=が講師を務め、戦時中の陸軍加古川飛行場の歴史について、映像や写真を交えて語った。

 加古川観光協会などの主催。地域の歴史や文化を知ってもらおうと、2月の毎週土曜日に開講する。初回は95人が参加した。

 上谷さんは、沿岸部にあった同飛行場が、沖縄や東南アジアへ向かう戦闘機の整備拠点として果たした役割などを説明。聞き取り調査で、尾上町の住民が爆弾の点火装置を作っていたことも判明したといい、「軍需産業に従事した住民は多い。『命を奪う装置を作った』といまだに後悔を口にする人もいる」と述べた。

 戦争末期には特別攻撃隊の中継基地になり、大勢の若者が鹿児島県の知覧基地を経て出撃。上谷さんは「隊員にとって加古川は最後の時間を過ごす場所だった。悲しい現実だが、飛行場の歴史にもっと関心を持ってもらいたい」と話した。(以下略)(no3864)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(82) 奈良時代(12)、 駅ヶ池の堤は古代山陽道か?

2018-02-04 08:32:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   古代山陽道(2)

       駅ヶ池の堤は古代山陽道か?

 次の文は『加古のながれ』(加古川市史編さん室)からの引用です。

 説明の前に図の「古大内遺跡」の場所を確認してください。

  古大内遺跡は、賀古駅家(かこのうまや)跡

 ・・・加古川市野口町の古大内遺跡は、「賀古駅家」の跡として、全国的に認められるようになりました。

 その北にある駅ヶ池の南岸から西進して加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅前あたりまでを直線で結ぶ道路の痕跡が見いだされました。

 これがおよそ1300年前に設けられた古代山陽道で、幅は約20メートルもあります。

 このような広幅・直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道で、当時の30里、後世の5里ごとに駅家が設置されました。

 その一つが賀古駅家で、延喜式には駅馬40疋を常置したとありますから、日本一の大駅であったわけです。・・・(以上『加古のながれ』より)

      駅ヶ池の堤は古代山陽道か?

 駅ヶ池(うまやがいけ)と古代山陽道について書いてみます。

 ただし、今回の報告は研究者により証明されていません。内容についてはそのことを念頭にお読みください。

 赤く塗った道が古代山陽道で、奈良時代に造られました。

 駅池も奈良時代に造られて、市内では一番古い池です。

 古代山陽道も駅ヶ池も共に奈良時代に造られました。

 もちろん、このことは歴史的に証明されています。問題はここからです。

 古代山陽道と駅ヶ池の位置関係をご覧ください。

 駅池の南に沿って古代山陽道が走っています。

 これは偶然でしょうか。

 まず、古代山陽道が造られ、それに伴い駅ヶ池が造られたと想像します。

 駅ヶ池がある場所は、地形は西に低く、北と東が高く、水が集まる場所にあります。

 当時の人は、ここに池を造り、水をため田畑を潤し、生活に利用することを考えたと考えられます。

 池を造るための堤については、南と西に堤を防築けば池は完成します。

 問題は、南の長い堤防です。

 古代山陽道が駅ヶ池に沿っていることは、古代山陽道を駅池の南の堤防として利用したのではないかと想像するのです。

 古代山陽道は道幅20㍍前後あったといいます。また冠水しないために一段高く造られたでしょうから立派な堤防の役割を果たすことができます。

 いかがでしょうか。(no3863)

 *図:『加古川市史(第一巻)』より

 ◇きのう(2/3)の散歩(11.624歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(81) 奈良時代(11)、古代山陽道(1)

2018-02-03 07:08:12 | お爺さんが語る郷土の歴史

     古代山陽道(1)

 7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を、さらに拡大するために道を整備しました。

 とりわけ、奈良と九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ山陽道は重要な道でした。

 街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。

 野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれていました。

 山陽道最大ということは、日本で最大の駅(うまや)が野口にあったということです。

 ふつう駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えていました。

 賀古の駅のあった場所は、古大内(ふろうち・野口町)に「駅が池(うまやがいけ)」があり、賀古駅のあったといわれている大歳神社あたりの調査が行われ駅跡であることが確かめられています。

 (蛇足)・・・駅に「馬へん」が使われているのは、駅はもともと電車ではなく馬がその役割をはたしていたためです。

 「賀古の駅」については後にさらに紹介することにします。

 奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨げられ、多くの場合、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとっています。

 古大内(ふろうち)は、「古大路(ふるおおじ)」が訛ったものではないかとも想像されています。(no3862)

 *地図:「兵庫探検(歴史風土編)」(神戸新聞)より

 ◇きのう(2/2)の散歩(11.396歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんが語る郷土の歴史(80) 奈良時代(10)・ 鹿子水門(かこのみなと)

2018-02-02 06:24:36 | お爺さんが語る郷土の歴史

     鹿子水門(かこのみなと)

 『日本書紀』応神天皇13年の条に、次のような話があります。

 ・・・天皇が淡路島に狩に出かけた時に、多くの鹿が「鹿子水門(かこのみなと)」に入るのを見ました。

 調べてみると、日向(宮崎)の豪族の娘(髪長媛-かみながひめ)が都に仕えるために東上するための一行だった。

 彼らが鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまったのでした。・・・

 これは、地名説話ですが、九州と畿内を結ぶ瀬戸内海の泊(港)のひとつに、「鹿子水門」があったことを物語っています。

 古代には河口が港として利用される場合が多かったが、航海に必要な水や食料も得やすかったのでしょう。

 それに、加古川の河口は内陸部と結ぶ重要な拠点でした。

 「鹿子水門」がどこにあったか、明らかではないのですが、研究者は、「鹿子の水門(みなと)」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。

 稲屋の近くにある泊神社(木村)は、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。(no3861)

*『加古の流れ(市史余話)』『加古川市史(一巻)」参照

 *写真:加古川町稲屋、福田寺付近(鹿子水門址)

 ◇きのう(2/1)の散歩(10.810歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする