ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(101) 平安時代(9)、 日向宮(日岡神社)本地仏(ほんじぶつ)

2018-02-24 07:42:45 | お爺さんが語る郷土の歴史

    日向宮(日岡神社)本地仏(ほんじぶつ)

 『信仰の美術・播磨の聖たち』の常楽寺の観音像の説明の続きを読んでおきます。 写真をご覧いながら読みください。


 ・・・・注目すべきは、観音像の台座下部背面に「日向宮本地仏」の銘が陰刻されていることである。
 台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられるが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていたことになる。
 ・・・加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえる。・・・・
 ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。
    
本地仏(ほんじぶつ)

 「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味ですから、本地仏(ほんじぶつ)とは、本来の姿である仏様という意味になります。
 しかし、これだけでは何のことか分かりません。本地垂迹(ほんじすいじゃく)ということについて知る必要があります。
 本地垂迹というのは、本来の姿は仏教の仏、その仮の姿が神道の神、というほどの意味です。

 つまり、「本地仏というのは、神道の神様と仏教の仏様は同体だ、という理論で、神様の本来の姿は仏様です」という意味です。
 このような、神仏のあり方を「神仏習合」と言います。
    
日向宮(ひゅうがのみや)
 「日向宮(ひゅうがのみや)」は、日岡山にある「日岡神社」のことです。 
以下、日岡神社として話を進めます。

    日岡神社は式内社(しきないしゃ)

 式内社というのは、10世紀のはじめに作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことです。
 中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのです。
 加古川市近辺(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は、日岡神社だけです。

 つまり、聖観音の台座の銘は、神仏習合を知る貴重な資料です。
 明治になり、神仏分離令が出され、お互いに独立した神社、寺として今日に至っています。

 後に、少しこだわって常樂寺(加古川大野町)を取り上げます。というのは真言律宗・後醍醐天皇・文観(加古川出身の僧で後醍醐天皇のブレーン)につながる寺院のためです。

 知られざる日本史に風穴をこじ開ける話題のためです。きょうは予告のみです。(no3384)

 *写真:聖観音菩薩立像台座銘

 ◇きのう(2/23)の散歩(10.293歩)

 

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