大中は絶好の生活の場
大中の集落は他の集落遺跡がそうであるように、絶好の場所に営まれていました。
播磨平野のほぼ中奥部で、北から張り出した低平な丘陵は、国道二号線のあたりで切れ、海岸線沿いの低地へとつながっています。大中の弥生集落はこの台地の南端部に築かれます。
高台であるため加古川の氾濫の影響もあまりなかったようです。
台地の南は低湿地で、米は十分な収穫があったことでしょう。
さらに、すぐ近くを喜瀬川が流れ、伏流水も豊かで飲み水の心配もなかったようです。
大中の人々は、こうしたすばらしい環境の中で生活していました。
イイダコ漁
大中の各住居跡から、非常に小型の土器が百数十個出土しています。
高さがせいぜい15センチで、口の部分または底部に小さな穴があいており、単なる貯蔵用の容器ではないことは確かです。
この土器は大阪湾沿岸、播磨灘北九州の博多湾沿岸からも多数の出土例があり、用途不明の土器として長く放置されてきましたが、最近になってイイダコ漁のための土器であることがわかりました。
今から1100年前、大中の人々はすでにイイダコの習性を知って、特殊な漁獲法を工夫し、そのうまさを味わっていたのです。
イイダコは、体は小さいのに大きな卵を産みます。その味は絶品です。
春から秋にかけてのイネ作りが終わった時期、大中の人々は、比較的ひまでした。
この時期、彼らは北西の寒風に吹かれながらイイダコ漁していたに違いありません。
*図:大阪湾・播磨灘沿岸のイイダコつぼ型土器分布図(『兵庫探検・歴史風土編(神戸新聞社)』)より
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