寂しい故郷
ヒコは、駕籠(かご)が村に入ってから、かれの胸に驚きの感情が湧いていた。
13歳の折りまで眼にした村とは異なって、大きく立派に見えた家々がいずれも低くみすぼらしい。
広いと思っていた道もひどくせまく、それは体の小さい少年の眼に映じていた村の姿が胸に焼きついていたからなのだろう。
かれはあたりを見廻した。村のたたずまいは佗しく、家がかたむき、あきらかに廃屋になっている家もある。
路上に姿を見せているのは幼い子供たちだけで、それらの子供たちの衣類はいずれも粗末で手足が細く薄ぎたない。
夢に描いていた故郷とは大きなへだたりがあった。
ヒコは、警護のため同行してきた県庁の役人たちが、庄屋や村の重だった者たちから村の現情についてたずねているのをきいていた。
村では棉花畠が多く、姫路藩の木綿専売制のもとに棉花が農家の主要な収入源になっていたが、棉花の価格暴落で農家の収入は激減した。
さらに終始幕府に忠誠の姿勢をとっていた姫路藩は、幕府による長州征討、鳥羽、伏見の戦費を村人に課し、その上、連続する不作で村は貧困の極に達した。
そのため田畠を捨てて流亡する者が後を絶たず、62戸あった人家が30戸にまで減っている。
その話をきいていたヒコは、村に廃屋が目立ち、人々も痩せこけている理由を知った。
誰も知らない
ヒコは、庄屋をはじめ村の重だった者たちの顔をあらためてながめた。
子供の折りに眼にしたことはあるのだろうが、いずれも見知らぬ者ばかりであった。
義兄の宇之松がいたら、駈けつけてきただろうが、姿を見せないのは回船の船頭として海に出ているからにちがいない。
義父の吉左衛門の縁者もいるはずだが、それらしき者が姿をみせないのは、自分に会いたい気持がないのか、それとも窮におちいって田畠をすてて流亡したのか。
「吉左衛門(義父)は死んだ」と宇之松は言っていたが、それは菩提寺の蓮花寺に行けばわかる。
「蓮花寺に行きたい」
かれは、庄屋に声をかけた。
*『アメリカ彦蔵(吉村昭)』(読売新聞社)参照
*写真:ヒコの菩提寺・蓮花寺(6日撮影)
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