東志方広尾の円照寺に「朝鮮通信使饗応記録(享保4年・1719)」が残されています。
この古文書については、上月昭信氏が「志方郷(第50号)」で「円照寺に残る朝鮮通信使饗応記録」として執筆されています。
詳しくは、それをご覧ください。今日の報告は上月氏の研究をお借りしています。
*写真は、「朝鮮通信使饗応記録(部分)」
円照寺に残る「朝鮮通信使饗応記録」
江戸時代将軍が代わるごとに、朝鮮からは通信使とよばれる使節が江戸を訪れるようになりました。この使節を「朝鮮通信使」といいます。
この朝鮮通信使は、江戸時代を通じて合計12回派遣されました。
この円照寺の「朝鮮通信使饗応記録」は幅14.8㎝、長さ293㎝の和紙に書かれ巻ものとして保管されています。
はじめに「献立」とあり、前半は来日した高官に供された料理の内容が書かれています。
また、後半は、通信使一行の官職、人数、姓名が書かれています。
この文書は、享保4年(1719)、第8代将軍吉宗の時に来日した朝鮮通信使(第九次通信使)の際の記録であり、一行475人のうち、朝鮮側の高官6人をもてなした「料理と一行の編成」を書き写したものです。
料理の内容は、食材、器にいたるまで細かく書かれており、食材は播磨地方で用意できる高級なものが多く使われています。
朝鮮通信使は、朝鮮を出発すると対馬を経て各地に寄港しながら大坂・江戸をめざした。
幕府は領内を通過する各藩に対し、通信使一行の警備と接待の内容について細かい指示と連絡をしています。
このため、各藩ではその準備に藩を上げて取りかかりました。財政的な負担も大変でした。
一行は、岡山県の牛窓から室津へ寄港し、そして兵庫に向かいました。
室津での接待を担当するのは姫路藩でした。
藩は、宿舎や食事の準備のため等の財政負担は商人・百姓に割り当てました。
吉広村庄屋・堀内氏から円照寺に譲られた記録か!
郷土史家の上月昭信氏は、「この記録は堀内家の家系図と一緒に発見されたことから、堀内家から円照寺に譲られたものと思われ、当時、広尾は吉広村と呼ばれ姫路藩領ではなかったが、吉広村の庄屋であった堀内蘇斎は、姫路藩の接待記録や来訪した人名を書き写し、後日のために備えたものと思われる」と推理されています。
経済的な負担の事もあり、朝鮮通信使の来訪は、室津と遠く離れた広尾村でも、大きな関心事でした。
なお、円照寺に残る通信使一行の名前について、上月氏は韓国での調査で正確に一致しており、誤字脱字が多い幕府の記録よりも正確な内容となっていることを確認されています。
また、享保4年の原本となる姫路藩の記録が未発見であるだけに貴重なものとなっています。
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