ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(311):円照寺(4)・庄屋寄進の鐘

2012-06-22 08:02:29 |  ・加古川市東志方

   

   吉広庄屋(堀内宅)にて昼食

027  伊能忠敬測量隊にいて、前号の復習をしておきます。

伊能忠敬測量隊は、文化11年(181434日、姫路城下を出発、その後二手に分かれ、その日の測量を済ませ、夜は合流して、坂本村(加西市)庄屋宅などに宿泊しています。

5日も二隊に分かれ、一隊の忠敬を含む5人のメンバーは、坂本から法華山線に沿って三口に出て、県道43号高砂北条線を南下しながら志方町内に入りました。

一行は細工所から岡、中才、吉広、柏尾、そして平荘町の一本松に向かって測量をしました。

このルートは、加西道です。加西道については「志方を歩く(309310)」をご覧ください。

日記によると35日の昼食は吉広村(現広尾西)庄屋・(堀内)清之丞宅でとっています。

庄屋・清之丞は医者でもあり「堀内京庵」と名のっていました。

35日は旧暦であり、今の2月です。

その日は晴れていたようですが、凍えるような風の中での測量であったと想像されます。

吉広村(現:広尾西)の村人は、暖かい味噌汁で待をしたと想像してみます。

こんな、どうでもよいことに興味を持つのですが、記録がないのでわかりません。

    庄屋・堀内信秀寄進の鐘

天明五年(1785)、庄屋・清之丞の父と思われる堀内信秀より円照寺に寄進された鐘(写真)が同寺の本堂の軒にあります。

堀内家は、当時円照寺の檀家総代のような役割の人物のようです。

堀内家は、明治時代の初めまで吉広村に住んでいたことが知られていますが、その後転居されています。

堀内家の邸宅跡・墓地は、現在も広尾西地区に残っています。

なお・堀内家に保存されていた古記録の一部が現在円照寺に保存されています。

次号で、その一部を紹介しましょう。

*「伊能忠敬・測量隊が歩いた道(上月昭信)」(志方郷48号)参照

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