貞観10年(868)播磨大震災
播磨に大地震の記録があります。
その記録は『類聚国史(巻・一七一)』で、「・・・(貞観十年七月十五日の条に)播磨の国に地震があり、大地震。郡の官舎・諸寺の堂塔みなことごとく崩れた・・」と播磨に大地震があったことを記録しています。
地震が発生したのは、七月八日のようで、被害の状況を調査し、一週間後に報告しています。
この大地震が播磨に与えた影響は甚大なものだったようです。
郡の役所や寺の堂塔はことごとく大破しています。
死者等の記録はないものの多くの人々が犠牲になったと想像されます。
余談になりますが、播磨には貞観十年(868)年以前の建物がほとんど残っていないのは、この地震のためであると思われます。
米田に大地震(応永19年・1412)の記録
また、中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書(ちんぞうしぶんしょ)』には地震について記録がありあます。
記事は、次のようです。
・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋破くつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・
播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録しています。
米田の地震は、今で言う直下型の地震であったのかもしれません。
加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を覆い、地下の構造が分かりにくくなっています。
南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要でそうが、加古川地方には、あんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害をもたらすかもしれません。
この二つの記録には津波の記録はありません。
その他の記録にも、加古川地域の津波の記録(歴史)はないようです。
でも、『大震災の地下で何が』(神戸新聞社)で、津波に関して次のような記述があります。
「・・・遅くとも2040年までに、和歌山沖の南海トラフでM8クラスの大地震が起こる可能性が指摘された。
その時は、揺れはともかく津波の心配がある。地震の規模によっては4~5㍍にもなるという。・・・」
もちろん、播磨灘に押し寄せる津波は若干弱まっているでしょうが、最近は「想定外」の出来事が多すぎます。
*いま、ブログを休んでいます。
この度の東北地方の大震災は、あまりに犠牲が大きすぎました。のんきな文章(ひろかずのブログ)を書くのは失礼な気がしたからです。
いまのところ「頑張ってください」・「支援します」としか言えません。
ブログを休んでいた間にも「播磨の地震・津波について知りたいという」メールを何通かいただきました。
もちろん、日ごろ研究していませんので詳しく知りません。とりあえず上記の内容を報告させていただきます。
図:南海地震・東南海地震・東海地震が同時に発生した場合の震度予想です。
加古川地方は「震度5強」と予想されています。
三木市吉川町に、文政元年に製作された布団屋台があり、彫刻の裏に「播州加古郡加古川町山中太兵衛殿」と云う宛名が墨書きしてあります。
「大坂出」とありますので、製作当時に大阪の彫り師より、発注者の山中氏に送付したものと思われます。
私の考えでは、吉川町が加古川町の山中氏に発注して、彫刻は大阪に外注した物と判断しているのですが、文化文政時代に、加古川にこういった大工が存在して居たのですが、このような情報を他でもお聞きになっておられませんか?
又、違う彫り物には、「播州加古郡加古?住人大竹」と読める墨書きもあります。
ちなみに、東加古川文化博物館に展示中の旧大野町屋台の彫刻彫り師は、私が居住する滑腹町屋台とおなじく「柳源助正則」です。