蛸草新村と十七丁新田の開拓は同じ時期に進められています。
草谷新村は、五郎右衛門が中心となり開発されました。
五郎右衛門については後に紹介しますが、中村の大庄屋で、この地域に強い影響力を持つ人物です。
五郎右衛門と岡村が同時に近くの地域を開発するのですから、その間に紛争があったようです。
内ケ池の一件
宝永六年(1709)三月、岡村の庄屋・九郎兵衛から郡奉行にあてた「口上」にそのようすを見てみます。
岡村は新田開発に伴い新池の工事を始めました。
十七丁の開発に対して、五郎右衛門から「この土地は六ヶ村入会の場所であるから、手をつけてはならぬ」という抗議を受けました。
これに対して、岡村は「この十七丁の新開地の場所は岡村の地に紛れない土地であるので、ここに新池を造っても支障がない・・・」と主張しています。
岡村のこの要求は郡奉行の認めるところとなり、池が造られました。
この池は、内が池(写真)と考えられます。内ヶ池は十七丁新田の地を灌漑しました。
内ヶ池に関する文書はこれ以外になく、詳しいことは分かりません。
草場の一件
正徳六年(1716)に十七丁の百姓六名が奉行にあてた「乍恐書付を以御願申上候(おそれながら、かきつけをもって、おねがいもうしあげそうろう)」という願書があります。
六名の百姓の名前は次のようです。
十七丁新田百姓 茂左衛門
平左衛門
宇右衛門
十郎左衛門
角兵衛
「十七丁新田百姓は、岡村庄屋九郎衛よりお願いしたように新田開発を進めていましたが、なかなか進みません。
だからといって、外の地域の人が開発しては、牛馬を飼育する草野がなくなり迷惑します・・・」と願い出ています。
この文書から当時、十七丁では牛馬による農耕が進んでいたことを示しています。
*『播州蛸草庄の水論(竹内卓爾著)』(日本古書通信社)参照
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