宝篋印塔(地蔵寺山墓地)
この宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、前号の五輪塔と同じ国安地蔵山墓にあります。
それにしても難しい漢字とその読みです。
墓地の説明版には、南北朝の石造物とあります。
宝篋印塔は、鎌倉時代に始められたと言われています。
名前の由来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めた塔ということです。
「宝篋印陀羅尼経」を唱えれば、地獄に居る祖先は極楽に行き、病気・貧困の者も救われるといい、この塔は墓地に置かれました。
地蔵寺墓地の宝篋印党派の基礎輪郭に「明徳元年(北朝1390)」の銘があります。
これも、稲美町の銘のある石造物としては最古級のものです。
南 北 朝
南北朝の争乱は、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対抗して隠岐(島根県)に流された(1332)辺りからはじまり、途中鎌倉幕府の滅亡などを経て、やがて足利尊氏が擁立する北朝によって南北朝朝が合一されるまで60年の間の混沌の時代をいいます。
南北朝が統一されるのは、明徳3年(1392)ですから明徳元年は南北朝時代の終わる2年前です。
明治時代から終戦の時まで、学校では「南朝が正しい」と教育されましたが、この宝篋印塔が造られた時代、南朝は全く勢いがありません。
北朝が断然優勢でした。
そのため、この石造物にも北朝の使った年号が記されています。
もっとも、北朝の政権も武士にささえられた時代で、南北朝時代は、混沌の中で武士の時代へと確実に歯車を回転させた時代でした。