ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(153):いなみ野フットパス(28)・伊左衛門の墓碑?

2010-03-19 00:11:40 |  ・いなみ野フットパス

寛延2(1949)12月にかけて、姫路藩は一揆が荒れ狂いました。

その一揆の「ひきがね」になったのは、野谷新村の伊左衛門でした。

播磨全般一揆と伊左衛門については「稲美町探訪(23)・伊左衛門物語①」~「同(27)・伊左衛門物語⑤」をご覧ください。

当然のように、一揆の後には厳しい処罰がありました。

伊左衛門は、取調べ中に死亡しましたが、遺体は処刑の時まで塩漬けにして保存されました。

   

磔刑になった伊左衛門

281 小説『播磨寛延一期・滑甚兵衛の反逆(田靡新著)(成星出版)の最後の部分を再度、読んでおきます。

「・・・九月二十三日、・・・・野谷新村の伊左衛門は、牢屋で吟味中に死亡した塩漬けの遺体を磔にされた。

・・・遠巻きにする百姓たちに見せしめの意味があった。

・・・日が暮れても、河原から動かない人が何人もいた。

夕焼けが堤防(どて)に連なった彼岸花を燃え立たせ、河原も空も血の色に染めぬいていたという・・・・」

   

伊左衛門の墓碑?

5d50b33e 伊左衛門の墓(写真)があると聞き、さっそく出かけました。

場所は「いなみ野フットパス・加古の道1」の●をいれた墓地です。

この道沿いには墓地が2か所ありますが南の小さな方の墓地です。

墓碑には「寛延三年五月十一日」の銘があります。

まさに播磨全般一揆の年に建てられた墓碑です。

伝承のように伊左衛門の墓碑でしょうか?

夢を壊すようで申し訳ないのですが、伊左衛門の墓碑とは考えにくい点がいくつかあります。

3点ばかり挙げておきます。

    伊衛門は野谷新村の人物です。この墓碑の場所は草谷です。

    磔刑になった人物の墓碑の建設は一般的に許可になりません。

(ひそかに墓をつくった可能性はある。後世、顕彰碑をつくる場合はある)

    伊左衛門の刑は、寛延3923日です。墓碑は511日につくられています。

処刑の前に墓をつくるだろうか?

確かに、この墓碑は一揆の年と重なります。そのため、伊左衛門の墓との伝承をもっていますが、伊左衛門の墓碑とは考えにくいのではないでしょうか。

断定はできません。さらに調査が必要です。

今のところは、「伊左衛門の墓碑といわれている」ということに留めておきましょう。

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