寛延2年(1949)の1~2月にかけて、姫路藩は一揆が荒れ狂いました。
その一揆の「ひきがね」になったのは、野谷新村の伊左衛門でした。
播磨全般一揆と伊左衛門については「稲美町探訪(23)・伊左衛門物語①」~「同(27)・伊左衛門物語⑤」をご覧ください。
当然のように、一揆の後には厳しい処罰がありました。
伊左衛門は、取調べ中に死亡しましたが、遺体は処刑の時まで塩漬けにして保存されました。
磔刑になった伊左衛門
小説『播磨寛延一期・滑甚兵衛の反逆(田靡新著)』(成星出版)の最後の部分を再度、読んでおきます。
「・・・九月二十三日、・・・・野谷新村の伊左衛門は、牢屋で吟味中に死亡した塩漬けの遺体を磔にされた。
・・・遠巻きにする百姓たちに見せしめの意味があった。
・・・日が暮れても、河原から動かない人が何人もいた。
夕焼けが堤防(どて)に連なった彼岸花を燃え立たせ、河原も空も血の色に染めぬいていたという・・・・」
伊左衛門の墓碑?
場所は「いなみ野フットパス・加古の道1」の●をいれた墓地です。
この道沿いには墓地が2か所ありますが南の小さな方の墓地です。
墓碑には「寛延三年五月十一日」の銘があります。
まさに播磨全般一揆の年に建てられた墓碑です。
伝承のように伊左衛門の墓碑でしょうか?
夢を壊すようで申し訳ないのですが、伊左衛門の墓碑とは考えにくい点がいくつかあります。
3点ばかり挙げておきます。
① 伊衛門は野谷新村の人物です。この墓碑の場所は草谷です。
② 磔刑になった人物の墓碑の建設は一般的に許可になりません。
(ひそかに墓をつくった可能性はある。後世、顕彰碑をつくる場合はある)
③ 伊左衛門の刑は、寛延3年9月23日です。墓碑は5月11日につくられています。
処刑の前に墓をつくるだろうか?
確かに、この墓碑は一揆の年と重なります。そのため、伊左衛門の墓との伝承をもっていますが、伊左衛門の墓碑とは考えにくいのではないでしょうか。
断定はできません。さらに調査が必要です。
今のところは、「伊左衛門の墓碑といわれている」ということに留めておきましょう。
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