いま「いなみ野フットパス・加古の道1」を西へあるき、荒内のお堂(地蔵堂)で足踏みしています。この地蔵堂の墓地に写真のような道標があります。
道標に向こうに伸びる道が、前号で訂正した「くそたれ坂」です。
道標、左 みきみち
「(この道標は)草谷の落城坂(くそたれ坂)にあったのが、道路改修の時に荒内の子安地蔵の境内に移された。
右 有馬道、左 みきみち
そして、中央に四国西国同行有志
とあり、寛政十一年(1799)の銘がある。
やはり、庚申さんが彫ってある」
以上が、この道標についての『稲美町史』の説明です。
彫られた像が青面金剛(しょうめんこんごう)であれば、庚申さん(こうじん)であることがはっきりするのですが、像は崩れており、はっきりしません。
が、稲美町は、県下でも但馬・淡路とともに庚申信仰が盛んな土地柄でした。
庚申信仰につい説明しておきましょう。
庚申信仰(こうしんしんこう)
江戸時代、ずいぶん盛んであった。庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。
庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われました。
コウシンさんは、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといいます。
そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像をおがんだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。
いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむと言う行事に変っていきました。
江戸時代、庚申信仰では、もっぱら青面金剛(しょうめんこんごう)が拝まれるようになりました。
県下には560以上の庚申さんが残っていますが、稲美町には36もあるといわれています。
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