「淡山疎水」完成後もため池による灌漑は、水利権の関係により、水の一番必要な時期に水が不足するといった状態が続いていました。
1年間を通じて、安定して取水できる水の開発が求められました。
また、東播工業地帯は急激に発展し、工業用水の需要が高まりました。
そのため、昭和45年10月農林省によって「国営東播用水事業」が発足し、加古川支流の篠山川に川代ダム、東条川に大川瀬ダム、美の川に呑吐ダムを建設し、取水することになりました。
この事業は、農業用水・工業用水・水道用水をまかなうものです。
「東播用水」の完成により、長年の願いであった印南台地の水不足の問題は解消されました。
加古地域への水は、呑吐ダムから練部屋分水所へ、そして加古支線を通じて通水されるようになりました。
そのために、大溝用水は補助的な用水のとなり、用水に面する田の排水溝として扱われるようになりました。
江戸時代から、地域を守り、育ててきた大溝用水は主役の座から降りることになりました。
安定的な水が得られるようになったことはすばらしいことなのですが、主役の座から降りた大溝用水は、人々から忘れ去られようとしています。
そして、今後の維持管理が大きな課題です。
後世にその歴史を伝えると共に、今後の利用方法を考えなくてはなりません。
稲美町の用水のほとんどはコンクリートで固められていますが、草谷墓地の前の大溝用水(写真)の一部で素掘りの堀を見ることができます。
「いなみ野フットパス・加古の道1」は「風呂ノ谷下池」に沿った大溝用水を歩きます。
先人の汗と熱が伝わってきます。