ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(68):小作争議

2009-12-25 00:23:16 | 稲美町

   地主と小作に分解

淡山疎水完成後の話を駆け足でしておきます。

「水を求めて」で、地租改正による重税、疎水建設費、そして天災などで、多くの百姓は土地を手放さざるを得なかったことを説明しました。

その間に小作化する農民も多数にのぼりました。

彼らに代わって土地を所有した不在地主や農民は大きな収益を得ることになりました。

疎水事業は「農民の救済をすくう」ことを目的としていたにかかわらず、結果的には小農から土地をとりあげるという一面も併せ持ちました。

つまり、不在地主の侵入、村民を地主と小作への分解という新たな問題を表面化させました。

    母里村小作争議・小作料三割減免を要求

3c8e3b6d  第一次世界大戦後、大正デモクラシーの高揚・社会主義思想の広まりの中で、小作人は農民組合をつくり、自分たちの権利を主張するようになりました。

大正13年(1922)賀川豊彦は「日本農民組合」を結成し、本部を神戸におきました。

高砂の河合義一は「日本農民組合東播連合会高砂支部」を結成しました。

加古郡・印南郡の農民がこれに加入して「小作料減免」などを要求して、小作争議が加古・印南郡の各地におこりました。

大正13年、母里村で小作争議が発生しました。

母里村は、稲美町域でも最も小作が多い地域でした。

大正13年は凶作に見舞われました。

そのため、母里村の小作は「小作料三割削減」を要求しました。

しかし、地主側はこれを認めないばかりか、小作人に貸している小作地への立ち入りを禁止してしまったのです。

これに対して小作側は、他の農民組合の支援うけ、夜間のうちに小作地の稲を刈り取るなどで対抗しました。

この小作争議は、「小作調停法」による調停(話し合い)にもちこまれ、地主・小作人から代表を出し、話し合いで小作料を決める慣行を誕生させました。

この母里村の小作争議は、天満村・加古村の地主・小作人にも大きな影響を与えました。

稲美地区の他の小作争議については『稲美町史』に詳しく紹介されているのでご覧ください。

     農地改革

日本は、第二次世界大戦で敗れました。社会は大きく変わりました。

農業部門では、自作農の創設を目指した「農地改革」が実施され、地主が持つ小作地を強制的に買い上げ、小作人に安く売り渡しました。

稲美町域では、加古村199町・母里村294町・天満村373町と、全体のうちの半数を占めた小作地が買い上げられ、小作は自作農となり、現在にいたっています。

 *写真:河合義一(日本農民組合東播連合会高砂支部会長)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする