品川農商務省大輔(次官)来る
(明治16年)12月19日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れました。この視察に県から租税課長が同行しました。
葡萄園の園長の福羽(ふくば)は、葡萄園の苗の植え付けや生育のようすのほか、地域の百姓の生活のようすも話しました。
丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。
品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。
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(品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」
(租税課長)「はい、知っております」
(品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」
租税課長への叱責はするどかった。
(品川)「・・・なぜ、適正な修正をしなかったのだ。郡長が土地売買の世話をしたということであるが、租税課長が修正していれば、せずに済んだはずではないのか」
そして、品川弥二郎からこんな発言が続きました。
(品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」
戸長たちは、顔を見合わせるのでした。
「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」
その後も、魚住逸治さんの疎水の話に随分熱心でした。
・・・
租税課長は、おもしろくなかった。
「この恨みは必ずかえさせてもらう・・・」
百姓への、お門違いの恨みが、腹のそこで煮えたぎっているのでした。
疎水計画が動く・・・
「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。
ウワサだけではなかったのです。
年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。2月には県の土木課長と郡長が水源まで視察をしました。
突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。
3月には、県の動きを追うかのように、農商務省の南市郎平が訪れました。
南は、安積疎水(福島県)を手がけた人物でしたから、疎水計画のウワサは、いっそう大きく広がりました。
県の土木課も加わり大がかりな調査もはじまりました。
7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。
(明治)17年3月、関係村より新赤堀郡長の副申を添えて、水路開削起工願を提出しました。
疎水計画は、にわかに動き出しました。
*写真:品川弥二郎(農商務省大輔)