ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(61):水を求めて(22)・疎水計画が動く

2009-12-18 18:27:20 |  ・稲美町水を求めて

 品川農商務省大輔(次官)来る

200pxyajiro_shinagawa_2 (明治16年)1219日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れました。この視察に県から租税課長が同行しました。

葡萄園の園長の福羽(ふくば)は、葡萄園の苗の植え付けや生育のようすのほか、地域の百姓の生活のようすも話しました。

丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。

品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。

・・・・・

(品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」

(租税課長)「はい、知っております」

(品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」

租税課長への叱責はするどかった。

(品川)「・・・なぜ、適正な修正をしなかったのだ。郡長が土地売買の世話をしたということであるが、租税課長が修正していれば、せずに済んだはずではないのか」

そして、品川弥二郎からこんな発言が続きました。

(品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」

戸長たちは、顔を見合わせるのでした。

「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」

その後も、魚住逸治さんの疎水の話に随分熱心でした。

・・・

租税課長は、おもしろくなかった。

「この恨みは必ずかえさせてもらう・・・」

百姓への、お門違いの恨みが、腹のそこで煮えたぎっているのでした。

    疎水計画が動く・・・

「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。

ウワサだけではなかったのです。

年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。2月には県の土木課長と郡長が水源まで視察をしました。

突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。

3月には、県の動きを追うかのように、農商務省の南市郎平が訪れました。

南は、安積疎水(福島県)を手がけた人物でしたから、疎水計画のウワサは、いっそう大きく広がりました。

県の土木課も加わり大がかりな調査もはじまりました。

7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。

(明治)17年3月、関係村より新赤堀郡長の副申を添えて、水路開削起工願を提出しました。

疎水計画は、にわかに動き出しました。

*写真:品川弥二郎(農商務省大輔)

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稲美町探訪(60):水を求めて(21)・北条郡長辞任

2009-12-18 08:47:39 |  ・稲美町水を求めて

写真(北条加古郡長:「稲美町探訪50」と同じ)を見ながら今日の記事をお読み下さい。

   説得すれど

A2dc4cac 印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長は上庁しました。

なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。

しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。

(県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。とんじゃくすることはない。処分は徹底して行なえ・・・」

・・・

郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。

(郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・

郡長が租税の支払いのために畑を売らせる。こんなことが許されるのだろうか」

こんな考えが北条自身を苦しめるのでした。

ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。

北条は、大阪のYに、土地の購入を申し込みました。

Yは、葡萄園に興味を持ち、将来の疎水の話に目を輝かせました。

「いまは儲けにならへんが、疎水ができたら、この地はようなる。ええ買い物かも知れへん」と考えたのでしょう。

没収地のうち34町の契約がまとまりました。

価格は、葡萄園の時と同じ反当り6円でした。

その代金の2000円は戸長に渡され、そのまま地租未納分として納付されました。

なんとか急場をしのぐことはできました。

残った没収地は元の百姓に返されました。

    北条郡長辞任

(明治)154月。突然郡長に勧業課への転任が決まりました。

役人として好ましくない人物として、閑職へ追われたのは明らかでした。

悔しかった。北条は、自分の力のなさを骨身にしみて感じるのでした。

このままでは、百姓がかわいそうだ。

・・・・

しかたがなかった。北条は、役人を辞任した。

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