ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川を歩く(11):布舟(ふしゅう)と一茶

2008-04-24 08:33:12 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_054 俳人・松岡青蘿(まつおかせいら)については、昨年2月14日・15日のブログをご覧願いたい。

 青蘿は、蕪村などと共に「芭蕉中興の六人」に数えられている。

 青蘿の門人に、高砂の田中布舟(たなかふしゅう)がいた。

 きょうは、布舟と小林一茶との話題を取り上げてみたい。

 一茶は、長野の貧しい農家に生まれた。

 三才で実母をなくし、八才の時継母が迎えられた。そして、十才の時異母弟が生まれた。

 以後、一茶は次第に孤独をかこつようになった。

  我と来て 遊べや 親のない雀

 この句は、この時期の一茶のやるべない気持ちを詠んだものといわれている。

 十四才の時、大好きであった祖母も天国へいった。江戸へ奉公に出た。

 二十五才の時、小林竹阿について俳諧を学んでいる。

 三十才で、彼は西国行脚の旅に出た。俳諧修行の旅であった。

 この旅の途中(寛政七年・1795)、一茶は高砂の布舟邸を訪れている。

 一茶の俳諧の師であった、小林竹阿が晩年大坂におり、布舟との関係ができていたのかもしれない。

 おそらく、竹阿の勧めで布舟を訪れたと想像される。

 一茶は、三月八日、四国の丸亀から下津井に渡り、九日に岡山まで来た。

 十三日、高砂に入り、布舟邸に泊まった。

 さっそく翌十四日、布舟邸で句会が開かれた。

  蝶と共に 我も七野を 巡るかな

 句会での一茶の句である。

 一茶は、布舟邸に二泊して加古川へ向かった。

 旅から江戸に帰った一茶は、句集『たびしうゐ』を出版している。

 布舟の句「みるうちに 雪添う土手の 柳哉」がある。

  水鳥の かしら並べて 朝(あした)かな

 これも布舟の句である。

 美しい高砂の風景を詠んでいる。高砂から、こんな風景が失われて久しい。

*写真は、布舟の墓(十輪寺墓地)

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