文久三年(1863)の夏のある日、一人の若者が高砂の町から姿を消した。
彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として活躍していた。
その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消した。
やがて、京の新撰組に入りサムライになったことを土地の人は風の便りに聞いた・・・
彼の名は、河合耆三郎で、武士として活躍したいと常々考えていた。
新撰組のできたことを知った。いてもたってもいられなく、ついに高砂を飛び出したのである。
彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)についた。
新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものであった。
慶応二年(1866)二月二日の朝のことであった。
前夜、タンスの中に入れていた五十両の大金が消えていた。
タンスに近づけたのは、新撰組の幹部だけであった。
これが表面に出れば深刻な内輪もめになる。
彼は、そっとして、この五十両の穴埋めのために国もとの高砂へ早飛脚をだした。
折り悪く、父親は商用で外に出ていた。
この間に、新撰組で五十両が必要になった。
「耆三郎がその金を盗んだ・・」と疑がわれた。
今となっては誰も信用してくれない。二月十二日、耆三郎の打ち首が決まった。
刑は、新撰組の道場横で行われた。時間は、午後八時をまわっていた。小雨交じりの寒い夜であったという。
処刑の三日後、彼が待ちにまった五十両がとどいた・・・
この金は、近藤勇が遊女を身請けするための金であったらしい。
耆三郎については、下母沢寛の小説『新撰組三部作・新撰組物語』(中央公論社・中公文庫)に詳しいが、たぶんにフィクションがある。でも、紹介しておきたい話題である。
*写真は、堀川沿いの江戸時代の高砂の倉庫群跡。内容とは直接関係がない。