今「ひろかずのブログ」では、「五ヶ井用水」を取り上げているが、ここで二・三「余話」をはさんでみたい。
もちろん「五ヶ井用水を歩く」は、その後10回ばかり続ける予定。
きのう(3月28日)の午後、加古川消防署志方分署の前の道の200mばかり北を、さらに細い道に分かれ、玉の緒地蔵尊に出かけた。
目的は、この石仏ではなく、さらに奥にある「三島由紀夫の慰霊碑」(写真上)を見に出かけた。
この碑については聞いていたが、いままで行く機会がなかった。
三メートルはあるであろう。自然石に黒御影をはめ込んで「三島由紀夫先生 慰霊の碑」と刻んでいる。
文字は、建立当時の知事・坂井時忠が揮毫している。
三島由紀夫は、祖父・平岡定太郎(さだたろう)の生まれた志方町を二度訪ねている。
一度は徴兵検査の時であり、二度目は、青野ヶ原戦車隊への入隊の時である。
入隊の時は「本籍地(志方村)の田舎で検査を受けた方がひ弱さが目立ち、採用されないかもしれないという父の入智恵で、私(由紀夫)は近畿地方の本籍地のH県(兵庫県のこと)で検査を受けている。
なおこの時、三島は加古川図書館横の松(写真下)で、地元青年たちと一緒に砂が入った米俵を持ち上げるテストを受けたが、持ちあがらなかった」と書いている。
また入隊時については、「(入隊の日)風邪で立っていることもできないほどだった。
青野ヶ原の検査会場で、獣のように丸裸にさせられウロウロしているうちに何度かくしゃみをした。
風邪のために熱が高く血沈を示したので肺浸潤といわれ、即日帰郷を命じられた・・・」と、ほとんど実話を書いている。
ともかく、由紀夫が加古川市を訪れたのは、この二回限りである。
三島由紀夫の碑に話をもどす。
この碑は地元食肉業界の方の私財と、その業界の賛同で建立されたと聞いた。
加古川市議会でも、S議員が「加古川市とゆかりのある三島を顕彰し、慰霊碑のある場所を市のパンフレットなどに掲載できないか」と市の見解をただしたこともあった。
その時は「作品に加古川市や播州に関する記述が見当たらず、今後遺品などでつながりが判明したときには検討したい」との答弁で終わっている。
それにしても、碑はともかく碑の横に、昭和45年11月25日に自衛隊市ヶ谷駐屯地での由紀夫の檄の全文が書かれている。
市としても、観光資源として認めにくい雰囲気があったのであろう。
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