昨年の11月24日(土)、東沢1号古墳の現地説明会にいった。
*場所は下の地図をご覧ください。
いただいた資料の最初の部分を読んでみたい。
「兵庫県立考古博物館では、東播磨南北道路の建設に先立ち、この10月から、東沢1号墳の発掘調査を行ってきました。
東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たにみつかった古墳です。
調査の結果、5世紀前半に造られた古墳であることが明らかになりました。
古墳の斜面には、葺石(ふきいし)が比較的良好に残存するとともに、古墳の周りを囲む周溝内からはたくさんの埴輪(はにわ)や土器が出土しています。
この他、弥生時代(約1800年前)の竪穴住居跡もみつかっています・・・」
上記の説明文の「東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たに見つかった古墳です」のカ所に注目して欲しい。
望塚は、加古川市内で唯一の銅鐸が発見された塚である。
望塚については、昨年の4月3日のブログ(望塚危うし!)もあわせてご覧ください。
銅鐸は、弥生時代の青銅器である。
東沢1号墳は、もちろん古墳時代の塚である。
歴史は、弥生時代から古墳時代へと移行する。
とすると、少しおかしなことになる。
新しい古墳時代の遺跡の上に、古い弥生時代の望塚があることになる。不思議である。
『加古川市史(第一巻)』で、望塚についての記述を読んでみたい。
「・・・(望塚の)銅鐸の出土した年代については諸説があり、一致しない。
大正二年、同三、四年、同七年、同十三、四年の五つの説がある。・・・・銅鐸出土に関しては、こうした基本的なことさえわからにことが多いのである・・・」
塚の上に「大正十四年八月、末沢隆次建立」の文字があるが、何らかの理由で当時すでに発見場所もはっきりしなくなっていたのであろう。
そして、場所の確定のないまま、「この辺にしておこう」と土盛りをして望塚としたのが真相に近いのではないか。
東播磨南北道路が望塚の上を通過することになり、遺跡の調査が行われて、このことが確かめられた。
現在、望塚は少し東へ移動した。写真は新しい望塚である。