鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があった。
その外にも、比較的小さな規模の城が多くあった。
ここでは、「加古川市史(二巻)」から、それらを紹介したい。
「加古川市史」では、「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居と呼び、・・・・構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域を出ない」と述べている。
尾上地区には、長田(加古川市尾上町長田)と安田に構居があった。
「加古郡史」では、それぞれ尾上城・安田城としているが規模はあまり大きくなく、構居と思われる。
市域のその他の構居については、「加古川市史(二巻)」を参照されたい。
これら土豪たちは、戦国時代最後の三木合戦では、別所氏につくか、あるいは秀吉側に味方するかの決断をせまられ中立はなかった。
加古川地方の多くの土豪(武士)は、三木(別所)方に味方した。そして、敗北し歴史から姿を消した。
長田構居の主(加古氏)も、三木方に味方し、そして敗北した。おそらく、安田構居の魚住氏も同じ運命をたどったのだろう。ともに、詳細は分からない。
*写真は、安田構居跡(安田の十五社がその場所である。10月19日のブログを参照されたい。)
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