ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

築山(その2)

2006-07-19 15:06:44 | 加古川市

_052   今週は、激しい雨が降り続いている。午前中、兵庫県南部に大雨警報がでていた。昔なら、こんな時は、洪水の心配をした。

  特に、国包のあたりは、しばしば大洪水を経験している。

  特に、鎌倉時代の嘉禄(かろく)元年(1225)の大洪水は、すさまじく、国包村の東を流れていた加古川が村を全滅させ、河原にしてしまった。

  昨日、このブログで取り上げた、ムクとエノキが目立つ場所は、高さ3メートルあまりの小高い丘になっている。

  地元では「国包の築山(くにかねのつきやま)」と呼ばれ、洪水の時の避難場所である。

  築山(つきやま)は、宝暦6年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人物が、加古川の洪水で毎年のように被害にあっていた住民の避難場所として私財を投げ出して築いた丘だと伝えられている。

  大正から昭和にかけて行われた加古川の大規模な改修以来、この地域は、やっと大きな洪水からまぬがれている。

  昔は、洪水の避難場所であったが、今は子供の遊び場所であり、信仰の場所として、社(築山神社)におまいりに来る人も多い。

* 写真は築山とエノキ・ムクノキ

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