「間形村由来書送り之事」より②
間形村:免相(税率)三割に
*間形村:現、加古川市加古川町美乃利
間形村の税率(免相・めんあい)は、それまで6割6分だったものが、上がり地となり、元文二年(1737)、上西条の沼田直次郎と加古新村と沼田九郎太夫に下げ渡しとなり税率も5割6分となりました。
それでも村は安定せず、延享三年(1746)に3割の年貢率(免相)を藩主・松平明矩(あきのり)に願い出たところ認められました。(「間形村由来書送り之事」より)
姫路藩は、間形村の窮状から判断して免相・3割を認めたのでしょうか?
当時の姫路藩の財政事情をみておきましょう。
姫路藩の財政は火の車
「稲美町探訪(397)」の一部を繰り返します。
徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。
その時、白河藩では、借金を踏み倒すなど、ひと騒が起こっています。
姫路藩への国替えは、その苦境を救うため発令されたようなものでした。
白河藩、姫路藩ともに十五万石ですが、実際の収入では米のほか、塩・木綿・皮等の産業をあわせると姫路藩の方がはるかに勝っていました。
姫路藩への転封は、松平家にとっては喜ばしいことだったのですが、その費用をつくるため商人から多額の借金をしての姫路入りとなりました。
明矩は、借金の返済は姫路で行うと約束して、やっとのことで姫路へ来ることができたのです。
そのため、姫路藩入部早々、まず増税にとりかかりました。
そのやり口はひどいものでした。
大庄屋を通じて百姓衆が願い出たという形式をとっての増税でした。
間形村減税の理由は?
姫路藩の財政は火の車だったのです。
免相を6割6分から短期間に3割にまで下げることなど、とうてい考えられる状況ではありませんでした。
でも、間形村の免相は3割が認められています。
何がそうさせたのでしょう。
想像してみたい。