草谷川物語⑤ 藩権力
田畑に水はいくらあってもあまるということはありません。
草谷八ヶ郷にとっても、水を加古新村(国岡新村を含む)に分けるということは大問題でした。
江戸時代の百姓にとって、水利関係の変更は、時には頑迷なまで拒むのが普通です。
すんなり解決するとは考えられません。
藩の指導
加古新村が草谷郷から水を得ることができる方法は、ただ一つです。
開発許可を姫路藩に申し出ることです。
そして、藩の許可を得ることでした。
藩の台所は火の車でした。年貢の増収を目指さなければならない事情がありました。
旧来の村の水利習慣をかたくなに守っておれば新田はできず、収量は増えません。
そこで、藩の水利慣行の変更という指導がありました。
「姫路藩の命令」ということであれば、草谷郷の村々としても「ノー」とは言えません。
しぶしぶでも認めざるを得ませんでした。
加古新村の頭百姓等は、草谷川の川郷の出身
加古新村内に水源がないという条件の中で、比較的順調に開発が進んだ理由がもう一つありました。
新田開発の中心になった才兵衛(中西条村庄屋)・喜平次(上西条村組頭)・次兵衛(下村庄屋)が、同じ草谷川の川郷の中西条・上西条・下村出身であったことです。
それに、何よりも加古新村の開発を支援した大庄屋の沼田与次太夫は上西条村出身です。
また、加古新村に入植した人々は、草谷川の川郷の者が多く、加古新村は川郷の枝村的な性格を持っていたためと考えられます。
*一口メモ
〈川郷(かわごう)〉
江戸時代、同じ川筋、あるいは水源から取水した村々